心のこもったものより、手間のかかったものの方がよい。

心のこもったものが必ずしも手間のかかったものであるとは限らないが、手間がかかったものには必ず心がこもっている。


心理劇とは、心理学的な劇というよりは、非哲学的な劇である。

だから、たいていの心理劇において、主人公は、「トラウマ」だの、「コンプレックス」だのを、次々と背負い込まされ、「ジレンマ」の中で、「ストレス」を溜め込み、歯切れの悪い「ヒステリー」を上げたりしても、最後には、何の<認識>にも至らないまま、強引な「カタルシス」に追い込まれるのである。

心理劇において、主人公(=鑑賞者)が踏んだりけったりで一向に救いが得られないのは、そこに哲学がないからである。


稲垣足穂だったか(←ルソーらしい)、

「男は本当のことを言い、女は相手の喜ぶことを言う。」

AさんがBさんに本音を言うとき、本音はAさんのものである。

AさんがBさんに喜ばれることを言うとき、それはBさんのものである。

本音は、聞き手のものではないから、聞き手にはその温もりが伝わらない。

つまり、本音は相手の心を暖めない。

女性、たとえば私の母は、いつも暖かい。


心の豊かさは許容量(器の大きさ)で決まる。

心の中身が詰まっている必要はない。



不寛容や無慈悲は、心のドーピングである。

それは、筋力増強剤ならぬ、心力増強剤である。

それは自分ではないある他人を見捨てる際に、自分の心の容量を狭めることによって、一時的に自分の心を強くさせる作用がある。

これの長年にわたる乱用が、結局は「心の心筋梗塞」を招くのだ。


【思索】「お気持ちだけいただいておきます」について

自分が必要としているわけでもないものを、他人から申し出られることってありますね。

例えば、いらないものを「あげます」と言われたり、自分でやりたくてやろうと思っていたら、「手伝います」と言われたり。

そういうときに、以下のように言って断ったりしますね。

「お気持ちだけいただいておきます。」


要するに、贈り物(援助)というのは、以下の2種類からなっていると言うことですね。

1.モノあるいは労力

2.気持ち(好意、善意)

で、1.はいらないけど、2.はせっかくなのでいただいておきますということですね。

なお、2.には、場合によっては、以下のものが含まれている場合もありますね。

2’.気持ち(下心)

この場合も、やっぱり「お気持ち(好意)だけいただいておきます」と言って断ったりしますね。

「お気持ちだけいただいておきます」というのは、きっと中身はどうでもよいことなんでしょうね。




【断片】心の強さについて

今ここに水道に繋がれたホースがあるとしよう。
ここから一定量の水が出ているとしよう。
もし、この水流の勢いを2倍にしたいと思ったら、どうすればよいだろうか。

正解は、以下の2種類のうちの、どちらかを行えばよいのである。

1.水道の蛇口をひねって放出される水量を2倍にする。
このとき、ホースの口の断面積は変わらないのだから、水は2倍の勢いで噴き出す。

2.ホースの先を握って、ホースの口の断面積を2分の1にする。
このとき、同じ水量が2分の1の狭いところを流れるのだから、水は2倍の勢いで噴き出す。

ここで、両者の違いは、前者の場合、流れ出る水量が2倍になったのに対して、後者の場合、流れ出る水量は変わらないと言うことである。


ある人の心の強さは、その人の心の広さに反比例している。
言い換えれば、ある人の心の強さは、その人の心の狭さに比例している。
人の心の総量(容量)は以下の方程式で表すことが出来る。

心の総量 = 心の強さ × 心の広さ

上の方程式により、自分の心を強くする方法は2種類あることが分かる。
例えば、ある人が自分の心の強さを2倍に強くしたいと思ったら、以下のどちらかを行えばよい。

1.心の総量を2倍にする。
つまり、器の大きな人間になる。

2.心の広さを2分の1にする。
つまり、心の狭い人間になる。

上のどちらの選択をしても、人間は自分の心を強くすることが出来る。
ただし、前者は難しく、後者は容易だが、心が狭くなるという副作用が伴う。


人の心は、それを狭めることによって、一時的に強めることが出来る。
それは、同じ水量でもホースの先を絞れば、水が勢いよく出てくるのに似ている。
しかし、出てくる水量は同じなのだ。


世の中には、強がりな人がいる。
強がりな人たちには、ある共通点が見られる。
それは「心が狭い」ということである。
彼らは「他人に対して不寛容である」という点において、共通している。
あなたの身近にいる強がりな人の言動を思い出してみれば、思い当たるだろう。
なお、ここでいう他人とは、自分以外のすべての人ではなくて、自分と気が合わない人たちのことである。


人間は、自分の心を狭めることによって、自分の心を強くすることができる。
人間がこの状態を長く続けていると、その人の心の強さと狭さはその状態で固定されてしまう。
その結果として、その人は自分の周囲にいる気の合った仲間たちのことしか視界に入らなくなる。
これが、「心の近眼」が発生する原因である。


一般に個人主義者には強気な人が多いが、これも上の現象の常習化が原因である。
例えば、抗議するとき、心が狭くならない人はいない。
しかし、それはたいていの人の場合、一時的な現象である。
しかし、世の中には、それが常態化してしまい、その人の生き方になってしまっている人もいる。
おそらく、その人は、自分の心を狭くすれば、自分の心が強められること、そうすれば自分は強く生きていけるということを、経験からよく知っているのだろう。
しかし、このやり方を意識的に取り入れることで自分の心を強くするのは、いわば「心のドーピング」であり、止めた方がよい。
それはあなたを蝕むだろう。


インターネットの世界において、匿名で強気な発言を繰り返している人をしばしば見かける。
彼らが、日常生活において、顔見知りの人たちに対して、同じように強気な態度を取っているとは思えない。
おそらく、彼らは匿名になったときだけ、強気になる人たちなのだろう。

ところで、匿名で強気なことを言う人たちには、心の狭い人が多い。
これは何故だろうか。
それは、彼らが強がりだからである。
ある人が、匿名でなければ強気になれないのは、その人が強がりだからである。
本当に心の強い人は匿名でなくても強気な態度を取ることが出来るだろう。
ここで、先ほどの考察により、強がりは心の狭さに比例している。
それ故に、匿名の場合だけ強気な態度をとる人は、心の狭い人である。
Q.E.D.


格闘家が必ず勝つ方法は、強者とは決して戦わず、弱者しか相手にしないことである。同じことは、人生においても言える。人生において必ず勝つ方法は、社会的な問題には一切関わらず、個人的な問題にしか取り組まないことである。このために、人生において勝利にこだわる人は、個人主義に陥ることが案外に多い。


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気付きについて


自由とは、誰でも気づくことが出来るのに、案外、誰も気がつかないことに、ひとり、気づくことである。

気づくことの出来る人は自由だ。

気がつかない人は不幸だ。もっとも、彼らは気づいていないことにさえ気づいていないのだが。

例えば、イエス・キリストは自由な人だったが、彼の弟子たちは必ずしも自由な人たちではなかった。

私たちは、他人に気づいたことを教えることは出来るが、気づき方を教えることは出来ない。

例えば、発明家は、発明した内容を説明することはできるが、発明の仕方を説明することは出来ない。

例えば、音楽家は、作曲した内容を聴かせることはできるが、作曲の仕方を説明することは出来ない。

だから、自由は教えることが出来ない。


強さとは、誰でも気づくことが出来るのに、案外、誰も気がつかないことに、ひとり、気づいたときに、ひとりでも目を背けないでいられることである。


人間は気がつかなかったことに気付けば気付くほど自由になれる。



知らない人は迷わず、知っている人も迷わない。

例えば、ある街に美味しい喫茶店があるとしよう。

その店のことを知らない人は「その店に行くにはどうしたらいいのだろうか」と迷うことはない。

その人はその店の存在自体を知らないのだから。

その店のことを知っている人も「その店に行くにはどうしたらいいのだろうか」と迷うことはない。

その人はその店のことはもうすでに知っているのだから。


問:知らない人が迷わず、知っている人も迷わないのであれば、誰が迷うのだろうか。

答:知りつつある人が迷うのだ。


その店のことを知りつつある人が「そのお店に行くにはどうしたらいいのだろうか」と迷うのだ。



ファッションに興味のない人は、ある服を欲しいとは思わない。

ファッションに詳しい人は、その服をいまさら欲しいとは思わない。

ファッションに興味を持ち始めた人が、その服を欲しがり、買おうかどうしようかと迷うのだ。


気付きは私の財産である。
気付けば気付くほど、私の心は軽くなる。
財産で一杯になりながら、私の心は軽くなる。

「気付く」とは、「これまで知っていたこととは矛盾することを知ること」である。