仏教やキリスト教のような古典的な宗教は、いわば「枯れた宗教」である。ここでいう「枯れた」とは、ソフトウェアエンジニアがよく言うところのそれであって、悪い意味ではない。
(「枯れた」とは、「(あるプログラムにおいて、)バグが出尽くしており、長年の修正により、コードが安定している」という意味。)
こういった古典的な宗教は、人類の長い歴史の中で、多くの人たちによって検証され、おおよそ知られうる限りの問題と改善策が出尽くしており、その本質を見直してみれば、実のところ、よく安定しているのである。ただし、この本質を見直すためには、どうしても、一旦、それまでの形式ばったしきたりや因習の類を捨てなければならないし、逆に無教養な宗教アレルギーも克服されていなければならない。その上で、自分自身の視点で改めて見直さなければならないのである。
ことわざは世界最小の宗教(の教義)である。
それは、仏教やキリスト教のようなマクロな宗教と違い、いつでも、いくつでも入信することが出来る。
だから、ある人が、あるときには「急がば回れ」教徒であって、あるときには「鉄は熱いうちに打て」教徒であることもある。
ある宗教団体の教義の不純さは、その教義に含まれる専門用語、特に造語の多さに比例する。
宗教の教義の不純さは、自然の摂理に反していることによって、よく分かる。
造語をしなければ言い表すことの出来ないような考えは、そもそも自然の摂理に反している。
初期の仏教の経典におけるブッダの発言や、福音書、特に山上の説教におけるキリストの発言には驚くほど造語が少ない。
学校には入学と卒業があるのに、宗教団体には入信はあっても卒業はない。
信者はいつまで経ってもその教えをマスターできないということだろうか。
「弟子は師に似ていればそれでよい」ということだろうか。
しかし、卒業のない学校にあなたは生涯通い続けたいだろうか。
あの世には、天国でもなく、地獄でもなく、メタな世界があるだけである。
芸術を楽しむ人は2種類ある。
1.他人の芸術を鑑賞する人。
2.自分で自分の芸術作品を作り出す人。
宗教を楽しむ人は2種類ある。
3.他人の宗教を信仰する人。
4.自分で自分の宗教を作り出す人。
世の中には、1.、2.、3.の人はたくさんいるが、4.の人は滅多にいない。
悟れば、孤立する。
信仰宗教団体の教祖が、しばしば「愛は大切だ、平和は大切だ」と言う。
栄養士が、しばしば「ビタミンは大切だ、コレステロールを減らさなければならない」と言う。
「それを自分で発見したわけではない」という点において、両者はよく似ている。
社会的なステータスと収入が全然違うわけだが。
愛するならば、手放しなさい。
信じるならば、手放しなさい。
棄教が信仰の仕上げである。
「信じている人」とは、「棄教できない人」である。
「信じている人」のままでは、「信じる人」にはなれない。
昔のことばかり信じていては、よりよいものを信じることは出来ないだろう。
【思索】メタ宗教について
テーマ:思索
"Imagine there's no countries It isn't hard to do Nothing to kill or die for And no religion too"
(John Lennon "Imagine")
本当の宗教とは、いわば「メタ(meta)宗教」である。
(メタについてのwikipediaの記事(特に「狭義のメタ」):
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF
)
メタ宗教は、世間的に言う「宗教」(宗旨、宗派)を、色々と見比べたり、その共通項(*)を抜き出したりしながら、(オブジェクト指向で言うところの)「汎化」(generalize)をすることによって得られる。
(*共通項・・・法衣や儀式などの表面的な部分について言っているのではない。)
言い換えるならば、いかなる伝統宗教も、新興宗教も、混交宗教も、それら自体は、世間的に言う宗教であって、メタ宗教ではない。
世間的に言う宗教とは、それぞれが、あくまでも、メタ宗教への数ある門のひとつであり、そこへ至るための道標である。
それらは玉石混淆であって、広い門もあれば、狭い門もあり、きわめて的確な方向を向いている道標もあれば、まるでデタラメな方向を向いている道程もある。
そう考えてみると、「この宗派が本物で、あの宗派はニセモノだ」という議論は、設問自体がナンセンスである。
宗旨、宗派は、どれかひとつだけを選んでみても仕方ない。
ましてや殺しあう必要なんてない。
想像してごらん、メタ宗教はあるが、宗旨、宗派はない世界を。
世間的に言う宗教から、メタ宗教を汎化したあとに残されるものは、その宗教独特のしきたりや儀式である。
それらは、メタ宗教にとって、本質的なものではなく、そこには含まれない。
メタ宗教そのものは、途中経過がどうであれ、結局は、自分で見出さなければならない。
何故ならば、人間は悟ることは出来るが、他人を悟らせることは出来ないからである。
仏陀やキリストのような一級の宗教家でさえ、身近にいる弟子たちでさえ簡単に悟らせることは出来なかった。
仏陀は、いわゆる「バラモン教」という非メタ宗教から、メタ宗教を発見した。
しかし、彼の弟子たちは、その彼から教わったメタ宗教から、再び、「仏教」という非メタ宗教を作り出した。
キリストは、いわゆる「ユダヤ教」という非メタ宗教から、メタ宗教を発見した。
しかし、彼の弟子たちは、その彼から教わったメタ宗教から、再び、「キリスト教」という非メタ宗教を作り出した。
仏教団体に入信すると、仏教徒にはなれるが、それだけで悟ったことになるわけではない。
それは、キリスト教などの場合も同じことである。
仏陀は、臨終の際、弟子たちに以下のように言った。
「自らを灯明とせよ。」(仏陀)
人間は、結局、自分で悟らなければならない。
悟るとは、この場合、自分なりにメタ宗教を見出すことである。
なお、本文中の「非メタ宗教」とは、メタ宗教に対する呼称であり、それ自体、新たな宗派を生んだ場合、その宗派からみれば、メタ宗教である。例えば、仏教は、宗教にとっては非メタ宗教だが、真言宗にとってはメタ宗教である。
【寓話】メタ宗教について
テーマ:寓話
先日、以下のような文章を書いた。
【思索】メタ宗教について
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10073690343.html
>そう考えてみると、「この宗派が本物で、あの宗派はニセモノだ」という議論は、設問自体がナンセンスである。
上の文書にある、メタ宗教と世間における諸宗派の関係は、「宗教」を「差別」に置き換えて考えてみると分かりやすい。
すなわち、
(メタ)宗教 : 諸宗派 = (メタ)差別 : 諸差別
と考えてみると分かりやすい。
世界中には様々な差別問題がある。
黒人差別、ユダヤ人差別、女性差別、身体障害者差別・・・。
ここで、私たちは、「これらのうち、どの差別問題が本物で、どの差別問題はニセモノだ」というような議論はしない。
例えば、「黒人差別は本物だが、ユダヤ人差別はニセモノだ」というような主張はありうるだろうか。
いや、ありえない。
例えば、こう考えてみよう。
あるところで、世界中の差別問題についての国際会議があった。
それに出席していたA民族のαさんが壇上で以下のように主張した。
「世界中に様々な差別があるが、その中で真の差別と呼べるのはA差別だけである。A差別こそが真に非人間的な差別であり、人類が最も優先して取り組まなければならない問題である。」
すると、同じ会議に参加していたB人種のβさんが以下のように反論した。
「αさんの主張は間違っている。本当に酷い差別はB人種に対するものであり、これに比べたらA差別なんてたいしたことはない。我々はB差別にこそ取り組むべきである。」
すると、やはり同じ会議に参加していた女性差別問題に取り組んでいるγ女史が反論した。
「何を言っているんですか。女性差別こそが、歴史的に最も古くからある、真に普遍的な差別です。これに取り組まないで、どんな差別に取り組むと言うのでしょうか。」
差別問題において、上のような議論って、ありうるだろうか。
いや、ありえない。
何故なら、差別問題に取り組んでいる人は、世界中の差別問題について、以下のような認識を持っているからである。
1.世界中で差別問題として知られているものは、「差別」の具体例である。それ以上でもそれ以下でもない。
2.真の差別、すなわち差別の本質は、世界中で差別問題として知られている様々な実例を比較検討し、その共通性を研究することによってつかむことが出来る。
言い換えると、世間的に漠然と「差別」と呼ばれているものが、上の宗教の話で言うところの「メタ差別」である。
そして、世間的に知られている個々の差別は、このメタ差別に基づいて構築された具体例である。
だから、上のように、「『A差別』が本物の差別で、『B差別』はニセモノの差別だ」というのは、設問自体がナンセンスである。
それはオブジェクト指向プログラミングにおいて、「(派生クラスである)兄弟クラスのうち、どれが基底クラスかに」ついて議論するようなものである。
これと同じことを、宗教について考えてみたらどうだろうか。
上の「差別問題についての国際会議」を「宗教についての国際会議」に置き換えて読み直してみたらどうか。
それがいわゆる宗教論争というものではないだろうか。
そして、それはやはり論争の議題自体が間違っていないだろうか。
すべての宗派は、メタ宗教の具体的な実例である。
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