幸福に慣れることは、幸福なことでもあり、無幸福なことでもある。

(無幸福は、不幸だろうか、不幸ではないだろうか。)


「考えているときは乞食、夢みているときは神々」(ヘルダーリン)

幸福を求めるのは不幸である。

幸福を夢見るのは幸福である。

後者はもはや神々の領域である。


寂しさと幸福は両立する。

静寂は不幸ではない。

だから、静かさも、寂しさも、不幸ではない。

寂しい人が幸福な人であるということはあり得るし、寂しくない人が不幸な人であるということもまたあり得る。

完全な幸福は存在しない。

最高に幸福な人は、そうではない全ての人たちの理解を超える。

だから、最高の幸福には、孤独と無理解がつきまとう。

イエスは最高に幸福な人だったから、孤独と無理解を甘受しなければならなかった。

もし、ある人が孤独や無理解を不幸と考えないのであるのならば、その人は完全な幸福を得たことになるだろう。


抽象的な幸福を狙っている人は、世間的な幸福に縁がない。

抽象的な幸福とはすなわちメタな幸福である。

世間的な幸福を狙っている人は、抽象的な幸福に縁がない。

野心家はメタなものに縁がない。

野心家は常に非抽象的である。


個人としては、幸福でなくてよいです。

小さい頃、十分幸福だったから、今の自分は幸福を追い求めたりしません。

幸福でなくてもよいという境地は幸福である。

それは決して減ることがない。


幸福になるということと、不幸にならないということは別の話である。

幸福になりたいというよりは、不幸になりたくない。


恵まれている人は幸福を手に入れやすいが、それは不幸になりにくい(不幸に対して耐性がある)ということではない。

恵まれている人は幸福に慣れているが、その人が必ずしも不幸に慣れているとは限らない。


幸運と不運は同時に遠ざかる。


幸運に背を向けると、幸福が見えてくる。

不運の反対は幸運。

幸運の反対は幸福。


幸運と不運の見分け方:

「たら、れば」が必要なのが幸運、必要だったのが不運


幸運と幸福の見分け方:

「たら、れば」が必要なのが幸運、不要なのが幸福