【断片】勝ち組についての考察
テーマ:断片


ある人はこう言う。

「人生はギャンブルである。」

それは違う。

人生のすべてがギャンブルではない。

人生の中で、ギャンブルとして取り扱えるのは当人の個人的なことに限られる。

例えば、消防士が火災現場で被災者を救助できるかどうかはギャンブルではない。

(我々はギャンブルにおいて、自分の魂を賭けることは出来ても、他人の魂を賭けることは出来ない。)

ギャンブルは私欲を満たすために行われる。

しかし、人生におけるアクションは、必ずしも私欲を満たすために行われるわけではない。

「人生はギャンブルである」とは、人生を個人主義的にしか眺めたことがない人の幼稚な人生観である。


では、世間的に名前を聞く「勝ち組」とは何であろうか。

それについて考察する。


Q1.例えば、素晴らしい画家が素晴らしい絵を描いても、「勝ち組」と呼ばれないのは何故だろう。

仮に、その画家の描いた絵が世間的に認められ、その絵が高額で売れたとしてもである。

A1.素晴らしい画家が素晴らしい絵を描いても勝ち組と呼ばれないのは、それによって負け組が生じないからである。

ある人が勝ち組と称されるためには、彼が勝ち組になることによって、負け組が生じなければならない。

例えば、株で大儲けをしたある人が勝ち組と称されるのは、同じ株で大損して負け組と称される人がいるからである。

それに対して、ある素晴らしい画家が素晴らしい絵を描いても、それで負け組になる人はいない。

素晴らしい画家が素晴らしい絵を描くことと、下手な画家が下手な絵を描くことは何の関係もない。

だから、素晴らしい絵を描く画家が勝ち組と称されることはなく、下手な絵を描く画家が負け組と称されることはない。

(芸術(創作)には、成功や失敗はあっても、勝ち負けはない。)

(勝ち負けは他人との比較から生まれる。)


Q2.例えば、ある消防士が火事の現場で被災者の子供を助けたとしても、「勝ち組」と呼ばれないのは何故だろう。

仮に、その消防士が、そのことで消防署長から表彰され、出世したりしたとしてもである。

A2.その動機に私欲がないからである。

ある人が勝ち組と称されるためには、その動機に私欲がなければならない。

消防士は火事で困っている人を助けて自分が出世しようという意図がない。

だから、消防士ががんばって、結果として、手柄を立てたとしても、彼は勝ち組とは呼ばれない。

(人命救助やボランティアも、芸術と同じように、成功や失敗はあっても、勝ち負けはない。)


上の事柄から、考えてみると、勝ち組の条件は以下の通りである。

1.社会的に成功すること。

2.自分が勝ち組になることで、負け組が生じること。

3.その動機が私利私欲にあること。すなわち、当人が個人主義者であること。


なお、上の勝ち組の定義はそのまま負け組にも適用できる。

すなわち、負け組の条件は以下の通りである。

1.社会的に失敗すること。

2.自分が負け組になることで、勝ち組が生じること。

3.その動機が私利私欲にあること。すなわち、当人が個人主義者であること。


勝ち組も負け組も個人主義者である。

個人主義者ではない者にとって、人生は勝たなくてもよく、負けなくてもよい。


以上である。

【断片】勝ち組についての考察 補足
テーマ:断片

勝ち組、負け組は個人主義者だと言った。

この言い方は正確ではない。


まず、勝ち組、負け組というのは、それぞれ2種類ある。

すなわち、先天的なそれと後天的なそれである。

先天的な勝ち組とは、生まれながらに恵まれている者である。

容姿の美しい者、家柄の良い者、金持ちの子女たち。

いわば、天然の勝ち組である。

それに対して、後天的な勝ち組とは、生まれたときには恵まれていなかったが、個人的な努力をして勝ち組になった者である。

いわば、人工の勝ち組である。


生まれながらの勝ち組と努力して成り上がった勝ち組を比べてみたとき、ある人はこういうかもしれない。

「生まれながらの勝ち組は自分で努力してそうなったわけではないから、それはその人の手柄ではない。

しかし、努力して成り上がった勝ち組は本人が一生懸命がんばったのだから、その手柄を得る正当な権利がある。」

それはそれでひとつの考え方である。

しかし、先日の勝ち組の定義を思い出して考えてみると、実は逆の評価も成り立つかもしれない。

すなわち、

「自分で努力して成り上がった勝ち組には個人主義的な意図があるが、生まれながらの勝ち組にはそれがない。

だから、自分で努力して成り上がった勝ち組は個人主義者だが、生まれながらの勝ち組はかならずしもそうとはいえない。」

これが、いわゆる成り上がり者が鼻をつままれる理由のひとつなのかもしれない。


ただ、主観的な印象を述べるならば、私は、生まれながらに負け組の立場に立たされた人間が、たとえ個人主義的な意図からであれ、そこから抜け出そうとして一生懸命になる姿を見て、必ずしも不快な印象を覚えない。



勝ち誇る人の顔の貧しいこと。

「偶然性」と「己の的の狭さ」に気付いていないのだ。