成熟した社会とは、フレームワークの安定した社会である。
であるから、そこで暮らす人は自分の役割を果たすだけでよい。
これが成熟社会における個人主義が蔓延する具体的な原因である。
強気な個人主義者と弱気な博愛主義者
個人主義者は自分のことしかしないから、いつも強気である。
博愛主義者は自分以外のことをあれこれしようとして手が回らないから、いつも弱気である。
全員が幸福になることはできるが、全員が幸運をつかむことは出来ない。
ある人が幸運をつかんだら、他の誰かが不運をつかむことになる。
幸福を求めるのは博愛主義的発想だが、幸運を求めるのは個人主義的発想である。
エリートと個人主義
日本語で使われるところの「エリート」にはあまりよい響きがない。
日本語でエリートという言葉が使われるとき、そこには個人主義者というニュアンスが含まれている。
世の中には、さまざまな分野にエリートがいる。
例えば、政界のエリート、医学界のエリートといったように。
ところで、ボランティアのエリートというのは聞いたことがない。
「ボランティアに資格はいらない」(キング牧師)
個人主義者の人が「だからそれが何なの?」と言うようなことに、個人主義者以外の人たちの人生の楽しさはある。
格闘家が必ず勝つ方法は、強者とは決して戦わず、弱者しか相手にしないことである。
同じことは、人生においても言える。
人生において必ず勝つ方法は、社会的な問題には一切関わらず、個人的な問題にしか取り組まないことである。
このために、人生において勝利にこだわる人は、個人主義に陥ることが案外に多い。
個人的なことで悩むのは、個人主義者がすることだから、個人的なことで悩む必要はない。
「弱音」に対する憎悪には、常に個人主義の臭いがする。
個人主義者は短距離走の選手に似ている。
彼らは人生において、走りたいときだけ全力で走る。
これに対して、博愛主義者は長距離の選手に似ている。
彼らは人生において、常に大きな目標に向かって一定の速度で走り続ける。
彼らは個人主義者のように全力疾走することもなければ、立ち止まることもない。
ここに両者の生き方の違いがある。
個人主義とは、(全人類に対して)私というニッチなところを攻めることである
博愛主義は原因(問題)を求める。
個人主義は結果(利益)を求める。
個人主義者の強気は、たまたま上手くいった個人的な結果に基づいている。
個人主義者の主張の強さは、個人的な能力の強さに比例する。
勝ち組も負け組も個人主義の一種である。
勝ち組は現状において支障がないので、個人主義のままで差支えがない。
しかし、その勝ち組も負け組になる可能性はある。
負け組が勝ち組よりも恵まれている唯一の点は、個人主義の矛盾に気が付きやすいことである。
個人主義の矛盾に気が付いた負け組が、別の道を捜し求め、そこに人生の意味を求めると、救われることがある。
この別の道を先人が一般論として説いたものが、いわゆる「宗教」である。
負け組は勝ち組よりも個人主義から抜け出しやすい。
目的なき手段は個人的にしか使われない。
課題なき鍛錬は個人主義による。
ずいぶん昔に個人主義を捨てた。
個人主義を捨てた私は、もはや個人としての魅力がない。
(性欲に基づいた魅力は、個人主義の産物である。)
現在の私はカッコよくもなければ、カッコわるくもない。
私は常に群集の一部である。
個人主義的な勝利よりも、博愛主義的な敗北の方がよい。
個人主義者でない人の特徴:
「地球や宇宙の最後が気になる。」
そのときまであなたは生きていないのだが。
美しい人には個人主義が必ずしも感じられないが、美しくしている人には個人主義が感じられることがある。
個人主義者が偽善者であることはまずない。
彼らは偽るべき善を知らない。
努力は意外に個人主義的である。
高学歴欲しさに受験勉強を一生懸命頑張るのは、個人主義である。
それを親も先生も一生懸命後押ししているのだ。
問題を通じて、社会と繋がっている。
利益を通じて、世間と繋がっている。
世間とは、社会における個人主義的部分集合である。
耐える義務のない人は耐えることを知らない。
「私の夢」を見ている人の意識は、その人の肉体の死と共に滅びる。
「私たちの夢」を見ている人の意識は、その人の肉体が死んでも滅びることがない。
誰かの意識がその夢の続きを見るだろう。
ジンゴイズムで友情を得ると、同じだけの憎しみが帰ってくるので、結局はトントンである。
個人主義者が社会問題を利用すると、ジンゴイズムが生まれる。
個人的な金儲けに夢中になっている人は、小さい頃、テーブルを拭いたりしたときに、「あら偉いわね」と言ってもらえなかった人なのではないか。
つまり、「『自分にとって有用ではなくても、社会的には有用なこと』をする喜び」を知らないのだ。
恵まれている人とは、個人的に高い価値を有している人である。
恵まれていない人とは、個人的に高い価値を有していない人である。
個人的な価値は、世の中全体から見れば、たいしたものではない。
恵まれている人が、自分の個人的な価値を守ることにこだわっていると、個人主義者になってしまい、世の中が見えてこない。
恵まれていない人は、自分の個人的な価値を得ることにこだわっていると、個人主義者になってしまい、世の中が見えてこない。
個人主義者は、恵まれている人にも、恵まれていない人にもいる。
ジンゴイズム的手法によって友人を獲得するのは、人間社会をマクロな視点で見れば、かなりの重罪である。
それは例えるならば、子供がいたずらで線路の上に置石をするようなものである。
当人にはたいした悪気もないのかもしれないが、それによって数万人の人間の生活に混乱が生じるのである。
以前にも述べたが、敵の敵は悪友である。
参考:
【思索】愛から憎みを差し引いて、なお残るもの
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10042086324.html
私たちの夢について。
例えば、こう考えてみよう。
あるところに仲のよい数人の高校生たちがいた。
同じ大学を目指して、受験勉強中だった。
いつも彼らは「一緒にがんばろうね」と言って励ましあっていた。
このとき、彼らは「私たちの夢」を見ているのではなく、実は、各自が結果的に同じ「私の夢」を見ているだけなのである。
大学受験において、「私が合格する夢」と、「私以外の人が合格する夢」は、相容れないから、それは「私たちの夢」ではない。
彼らの見ている夢は同床異夢である。
個人的な人間関係において、『お客さん意識』が抜けない人たちが多い。
今自分の目の前にいる同僚や知人が、名も知らぬコンビニ店員にしか見えていないのだ。
個人間の争いは、メタな議題を含まないから、興味がない。
個人的な問題は個人的に考えることが出来るし、個人的に解決することも出来る。
社会的な問題は個人的に考えることが出来ても、個人的に解決することは出来ない。
「自分のことは自分でしなさい」とはその通りである。
ただ、「自分のこと」は、「個人的なこと」だから、あまりそれに熱中していると、エゴイズムに陥ってしまう危険性があることも忘れてはいけない。
問題を解決するために能力が必要なのであって、能力を得るために問題を避けるというのは本末転倒である。
人間にとって、「分かる」とは、「価値を感じる」ということだ。
つまり、「分かる」とは、「(自分にとっての)メリットが分かる」ということだ。
人間は、自分にメリットのないことはなかなか理解できない。
実力主義という名の個人主義
個人主義者に努力好きが多いのは、実力主義者に努力好きが多いのと、理由は同じである。
個人主義には社会主義が欠けている。
社会主義には個人主義が欠けている。
社会主義から個人主義を差し引くと、全体主義になる。
全体主義とは、法人による個人主義である。
(ここで言う社会主義とは、個人主義と対を成すところのそれであって、マルクスの「資本論」以降に始まるところの歴史的なあれではない。)
自分のための努力は苦にならないのだから、
苦になる努力が他人のための努力である。
個人主義は社会規模にまで肥大化することがある。
そうなると、個人主義と社会主義は区別が付かなくなる。
この個人主義か社会主義か区別がつかなくなったものを、我々は全体主義と呼ぶ。
リストラ、戦争、差別は巨大な個人主義である。
成熟した社会において、個人主義者を諌めるのは時間の無駄である。
個人主義は心の近視である。
社会主義は心の遠視である。
どちらが正しいかを考えるのは間違いである。
どちらかだけで社会は成立しないのだから。
共産主義が全体主義に陥りやすいのは、そこに個人主義的な視点が欠けているからである。
「人民」と言う言葉に違和感を覚えるのは、そこに個人主義的な視点が欠けているからである。
共産主義の反対は個人主義である。
愛国主義の反対は個人主義である。
民族主義の反対は個人主義である。
共産主義と愛国主義と民族主義には反個人主義という共通点がある。
"one for all, all for one."という言葉について。
ここで言う"all"とはどのあたりまでの範囲を指すのだろうか。
「近所の仲良しグループ」程度の範囲しか指さないのであれば、それは個人主義の延長でしかない。
笑って暮らしたい?
であれば、悲惨なニュースは見ないことである。
なお、「笑って暮らす」のと、
「笑って暮らせる世の中を目指す」のは、
まったく異なる生き方である。
後者は必ずしも笑えない。
どちらでも好きな方を選びなさい。
個人的な成功体験は、偶然性が高くて参考にならない。
自称「サバサバしている人」には、個人主義者が多いのは何故だろう。
現代人は「世間体を気にしていない」のではなく、
「気にする世間体」が、昨今のオゾンホールのように狭くなっているのだろう。
かつては「旅」が恥を掻き捨てる場だったが、
最近では、「通勤」が恥の掻き捨て場になってしまった。
家族、恋人、友人、会社の同僚だけで世間が構成されているのだから、通勤中の恥は気になるまい。
【断片】個人主義についての言葉のスケッチ
テーマ:断片
個人主義は哲学における幼年期である。
成人期以降における個人主義は、哲学的な引きこもりである。
世に言う引きこもりが、実家が裕福であればあるほど気兼ねなく続けられるように、
個人主義は、社会問題に関わりがなければないほど気兼ねなく続けられる。
(人間的な問題は、個人的な問題からではなく、社会的な問題から導き出される。)
(個人的な問題は、個人的に解決すればよいから、それが普遍的で人間的な問題にまで高められることは稀である。)
個人主義者が一番恐れるのは、社会問題とかかわることであり、
冷やかしは、個人主義者の最もコストのかからない自衛策である。
(他人から冷やかしを受けたら、自分がその対照の立場にいることを、感謝すればよい。)
個人主義は、快楽主義と(個人的な)能力主義に分解することが出来る。
個人主義は短距離走だから、成功か失敗かが一代限りで判明する。
博愛主義は長距離走、もっと言えば、リレーだから、自分が志半ばで倒れてもかまわない。
キング牧師やガンジーは個人的には志半ばで倒れたが、彼らの人生は間違いでも、失敗でも、無駄でもない。
博愛主義に失敗はない。
個人主義者は、その人生を振り返ってみると、2種類に分けられる。
1.個人的に成功した人。
2.個人的に失敗した人。
1.を勝ち組、2.を負け組という。
勝ち組も負け組も個人主義者である。
個人主義は一種のギャンブルである。
だから、負け組が勝ち組をねたむのは筋違いである。
負け組の人は誰にもその責任を求めることが出来ない。
何故なら、あなたは個人主義というギャンブルに自らの意思で参加したのだから。
私は個人主義者ではないので、個人主義というギャンブルには参加しない。
個人主義のギャンブルに参加しないから、私には勝ち組も負け組もない。
なお、個人主義者が能力主義に走るのは、彼らには人生における失敗が許されないからである。
【断片】個人主義の定義
個人主義の定義は何だろうか。
単純に考えれば、以下の通りである。
1.「自分ひとりのことしか考えないこと」
しかし、この定義は現実的ではない。
世の中に自分ひとりのことしか考えない人というのはまずいない。
誰でも家族や身近な友人のことぐらいは考えるからだ。
だから、現実的な定義は以下のようになるだろう。
2.「自分と家族や友人のことしか考えないこと」
つまり、イナガキタルホの言う「何事も自己と家族徒党の上にのみ限られている人」の人生観である。
この定義をもう少し広げて、次のように考えてみるとどうだろうか。
3.「顔見知りの人のことしか考えないこと」
世の中には顔見知りの人には親切にするが、見ず知らずの人に対しては不親切な人は多い。
例えば、顔見知りばかりの社員食堂ではちゃんと並んで他人に道を譲ったりする会社員が、電車に乗るときには平気で見知らぬ人を追い抜いて空いている席に駆け込んだりする。
こういった生き方も結局は個人主義の延長だろう。
では、この定義をさらに広げて、次のように考えてみるとどうだろうか。
4.「地元の人のことしか考えないこと」
ある地域社会に暮らしていて、その社会において出会う人に対しては、その人が顔見知りであろうとなかろうと親切にするが、遠く離れた外国での災害、戦争、差別、弾圧などについてはまったく関心がないと言う人はよくいるが、ここまで来ると、常識的な感覚から言えば、もう個人主義とは言えない。
しかし、よりマクロな視点で考えるならば、個人主義と言えなくもない。
何故なら、そういった個々人のものの見方が、例えば、国家間の外交における首脳の態度などによく現れるからである。
一般に、個人主義は自覚されにくい。
「私は個人主義者だ」と自称する人はまずいない。
これは、「私は差別主義者だ」と自称する人がいないのに似ている。
しかし、他人の視点で見るならば、個人主義者や差別主義者はいくらでもいる。
これは何故だろう。
結局のところ、個人は、単独では成立することが出来ず、他人との何らかの関わりがあって成立している。
そう考えてみると、「個人主義」とは、あくまでも机上の理論であって、現実的には「身内主義」とでも言った方が分かりやすい。
言い換えれば、「身内主義」が、現実社会における「個人主義」なのだ。
そう考えてみると、世の中にはいかに個人主義者の多いことだろう。
参考:
マタイによる福音書 5 43-48
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