現代社会では、心の病が流行っている。


心の病は以下の2種類に分けられる。


1.言葉の病


2.言葉の病以外の心の病


現代社会で増え続けているのは、1.である。



言葉の病は向精神薬のような薬剤では治せない。


言葉の病は言葉の薬に拠らなければ治せない。




例えば、マタイによる福音書の中の、いわゆる「山上の説教」の中で、イエスはいくつかの故事をあげて、それを否定する考えを示している。


例えば、以下のようなものである。


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
(マタイによる福音書 5 43-44)



仮に、イエスの言うことが正しいと仮定するならば、以下のように言える。


『隣人を愛し、敵を憎め』は言葉の病である。


それに感染した者は、敵を憎むことに自制が効かなくなり、結局は自ら苦しむことになる。


『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』は、それに対する言葉の薬である。



『隣人を愛し、敵を憎め』という言葉を受け入れた人たちは、回りまわって、色々なことに苦しむことになる。


彼らの中には、感染についての自覚症状がないまま、精神科医に相談し、色々な向精神薬を処方してもらう人がいるのかもしれない。


しかし、それらの薬は一向に効かないだろう。


向精神薬で、白を黒とすることが出来るだろうか。


向精神薬で、罪を滅ぼすことが出来るだろうか。


向精神薬で、自分が他人を憎んだことに対する罪悪感を一時的に抑制することは出来ても、罪悪そのものがなくなるわけではない。


罪悪感は心理学的な問題だが、罪悪は哲学的な問題である。


向精神薬で、罪悪感は解消出来ても、罪悪は解消出来ない。


ある人が、他人を憎んでは、その不快感を向精神薬で抑えるということを繰り返していると、罪悪感は抑えられても、罪悪はどんどん蓄積されていく。


向精神薬の服用を止めたとき、その人は我に返ることになる。


そのとき、罪悪を重ねて、憎悪の肥大したその人の精神はどうなっているだろうか。



結局、『隣人を愛し、敵を憎め』は言葉の病であって、それは薬剤によって治せるものではない。


それを治すことが出来るのは言葉の薬だけである。


その言葉の薬として、例えば、イエスは以下のようなものを処方している。


『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』


それが適切かどうかはともかくとして、上の例のように、言葉から罹った心の病は、言葉の薬で治すしかない。



言葉の病は、例えるならば、バグだらけのソフトウェアである。


それをインストールしたコンピュータは正しく動かなくなる。


それを修正するためには、正しいソフトウェアで修正(fix)しなければならない。


ソフトウェアの問題(言葉の病)はハードウェア(肉体)上の問題(故障=疾患)ではないのだから、ハードウェアを交換(手術、投薬)しても、治らない。



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