自由とは、誰でも気づくことが出来るのに、案外、誰も気がつかないことに、ひとり、気づくことである。


気づくことの出来る人は自由だ。


それに対して、気がつかない人は不自由だ。


彼らも既知の問題は簡単に解くことが出来るが、未知の問題にぶち当たると、簡単に立ち止まってしまう。


だから、彼らは少しでも多くのことをあらかじめ知っておこうとするが、それには限界がある。




イエス・キリストは自由な人だったが、彼の弟子たちは必ずしも自由な人たちではなかった。


キリストは一人で人生の色々なことに気がついたが、彼の弟子たちは必ずしもそうではなかった。


有用なことをたくさん知っている人が自由なのではない。


自由に気付くことが出来る人が自由なのだ。


私たちは、他人に気づいたことを教えることは出来るが、気づき方を教えることは出来ない。


発明家は、発明した内容を説明することはできるが、発明の仕方を説明することは出来ない。


音楽家は、作曲した内容を聴かせることはできるが、作曲の仕方を説明することは出来ない。


だから、自由は教えることが出来ない。


自由は自分で身につけなければならない。




世の中には、同じ社会においても、恵まれている人と、そうでない人がいる。


子供にも恵まれている子供とそうでない子供がいる。


恵まれている子供とは、有益な親の下に生まれた子供だ。


恵まれていない子供とは、有益な親の下に生まれなかった子供だ。


親の中でも、子供にとって最も有益な親は、有能な親、すなわち、世間知の多い親だ。


世間知の多い親の下に生まれた子供は、世の中の様々な課題を解決するための方法を、今さら自分で考え出す必要がない。


恵まれている子供は、気付くための努力をする必要がないので、その労力をすべて、既知の道を進むことに割り当てることが出来る。


その分、彼らは若くして成功しやすい。特に大学受験のようにその制度が古くから確立されているような場合においては。




それに対して、恵まれていない子供は、親の教えが得られず、人生の様々な問題に対して常に独力で取り組まなければならない。


例えば、親、親戚、周囲の大人たちに大学出身者が一人もいないような環境で育った子供は、親や先生から「よい大学にいきなさい」と言われても、そのためにどうすればよいのかが分からない。


一生懸命勉強して、大学受験で良い点を取れば、自動的に良い大学に合格できるはずなのだが、モチベーションも含めて、道の見えない者にとっては、なかなか思ったようにはいかないものである。


結局、人生の問題をひとりで改めて考えるということは、大人なら誰でも知っているような世間知を再発明するということである。


これは子供にとって、なかなか容易なことではなく、必ずしも成果が得られるとは限らない。


また、仮に何かしらを発明したところで、それは世間においては誰でも知っているようなことでしかないのだ。


要するに、恵まれていない子供が、人生において、あらためてひとりでやっていることは車輪の再発明でしかないのである。


しかし、恵まれていない子供はそれを繰り返すしかない。




ところが、ここにひとつの不思議な現象が生じる場合がある。


若い頃に、親の世間知で他の子供よりも前を走っていた子供が社会人になって立ち止まってしまうということがある。


何故なら、彼らは必ずしも社会人としての世間知を親から伝授されてはいないからである。


子供が親の世間知を意識しないで利用できるのはせいぜい就職活動までである。


だから彼らは未知の問題にぶち当たると、簡単に挫折してしまう。




特に、救いとか、悟りというものは、人から教えてもらえるものではないから、彼らが心の病にかかっても、自分ではどうにもすることが出来ない。


精神科医のもとに通って、処方された薬を飲んだりしてみても、何の効果も得られないのではないか。


無知に起因する心の問題は薬では治らない。


無知に起因する心の問題を治すためには、悟りを得るしかない。


悟りは薬物では得られない。


悟るためには、あえて車輪を再発明しなければならない。




それに対して、親から社会人としての世間知を伝授されていないという点では、恵まれていない子供も同じである。


しかし、恵まれていない子供はそれまでの人生においても、世間知のない状態で暮らしてきたので、社会人になってもその生き方はさして変わらない。


彼らは、社会に出たところで、これまでどおり試行錯誤するしかない。


しかし、その試行錯誤において、新しい道を見出すことは、恵まれていない子供にとって、仮にそれがただの再発明であったとしても、さして困難なことではないのが普通である。


若い頃に、車輪の再発明を繰り返した人間は、若い頃にはなかなか成功できなかったかもしれないが、それで発明をする癖が身についていると、年をとってから、案外に困難な思いをしないものである。


何故なら、彼らは、どんなに困難な問題にぶち当たっても、簡単に人生の答えを再発明してしまうからである。


それが世間的には何の価値がないにしても、当人にとって価値があるのであれば、当人はそれで一向に困ることがないのである。


とは言え、ある程度の年齢を重ねれば、既知の知恵を学ぶことも大切ではある。そうでなければ、ただの独覚で終わってしまうだろうから。




上のような事情によって、恵まれている子供がただの物知りな人間にしかならないのに対して、恵まれていない子供が気付きの多い人間になることは十分にありうるのである。


冒頭にも述べたとおり、自由とは気付くことに他ならないから、気付くことの多い人は、それだけで人生の自由を享受することが出来るのである。




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