人の住んでいる家には生命感がある。
どんなに古い家でも、どこか生き生きとしている。
人の住んでいない家は死んでいる。
「考えているときは乞食、夢みているときは神々」(ヘルダーリン)
幸福を求めるのは不幸である。
幸福を夢見るのは幸福である。
後者はもはや神々の領域である。
私の文学について
もはや在日文学ではない。
最初から在日文学ではなかったが。
ジンゴイズム的手法によって友人を獲得するのは、人間社会をマクロな視点で見れば、かなりの重罪である。
それは例えるならば、子供がいたずらで線路の上に置石をするようなものである。
当人にはたいした悪気もないのかもしれないが、それによって数万人の人間の生活に混乱が生じるのである。
なお、以前にも述べたが、敵の敵は悪友である。
参考:
【思索】愛から憎みを差し引いて、なお残るもの
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10042086324.html
私の意思は私の肉体を自由に動かすことが出来るが、他人の肉体を自由に動かすことは出来ない。
私が他人の腕を動かすためには、その他人の意思に依頼するか、その他人が眠っているうちに私の肉体でこっそりと動かすしかない。
私は私の手足を動かすことが出来る。
私は私の心臓を止めることが出来ない。
私は私の肺を(しばらくの間)止めることが出来る。
私は視線で他人を操作することが出来る。
例えば、私は電車に乗っている。
目の前に若い人がいて、大音量で音楽を聴いている。
うるさいので、私はその人を見つめる。
特に、その人の目と、その人の胸にぶら下がっているリモコンを見つめる。
すると、するすると音量が小さくなる。
私は視線で他人を操作することが出来る。
そうならない場合もあるが。
民放テレビはお金のかかる生き方の無料紹介所である。
そこを訪れた人は、とりあえず、応接間に通され、しばらくの間、恋愛ドラマでも観ているのである。
憎悪はあなたの自我を守る優秀なエージェントである。
それは迫り来る罪の意識からあなたを守り、
無能な者に対して浪費される慈悲を節約し、
小うるさい助言者を門前払いにし、
なされるべき反省を巧みな解釈で無効にしてくれる。
別の言い方をするならば、憎悪はあなたの優秀な通訳である。
彼がいるおかげで、あなたはいつまで経っても語学が身につかないのだ。
クリエイティブではない人の生き方は以下の2種類に分類することが出来る。
1.定員枠争い(学歴争い、バーゲンセール、電車における空席の取り合い、買占めなど)
2.転売(受け売り、パクリ、株の売買、丸投げ発注、ピンハネなど)
両者の違いは、利ざやの稼ぎ方の違いである。
前者は「空間的」であり、後者は「時間的」である。
いずれにしても、クリエイティブではないという点においては同じである。
クリエイティブに生きたければ、上のようなことをなるべくしないことである。
今日は陣馬山を歩きながら、上のようなことを考えた。
2008 (c) toraji.com All Right Reserved.
toraji.comの本の目次
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10059286217.html