我々はある他人を指して、以下のように言うことがある。


「あの人は何を考えているか分からない人だ。」


言う人をAさん、言われる人をBさんとしよう。


この場合、上のような発言が出てくると、我々はBさんに注目する。


Bさんがいかに理解しがたい変人であるかについて確かめようとする。


しかし、実際のところ、注目すべきはBさんではなくて、Aさんかもしれない。


何故なら、上の発言における「分からない」の主語は、Bさんではなくて、Aさんだからである。




例えば、こう考えてみよう。


あるところに、Aさんという人がいた。


彼はコンピュータについてちんぷんかんぷんだった。


ある日、彼はあるコンピュータ会社において、雑用係のアルバイトをすることになった。


さて、そのコンピュータ会社にはBさんというコンピュータのエキスパートがいた。


ある日、Aさんの横で、Bさんが後輩のCさんに仕事の指示を出していた。


Aさんは横でそれを聞いていたが、何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。


それで、Aさんは友人たちに言った。


「うちの会社のBさんは何を考えているのかさっぱり分からない人だ。」


するとその話をたまたま聞いたCさんは言った。


「そうかな。別にBさんは何を考えているのか分からない人ではないよ。」


Bさんという人は、Aさんにとっては分からない人でも、Cさんにとっては分からない人ではないのである。


本当の問題は、「Bさんが何を考えているのか分からない人であるかどうか」ではなくて、「AさんにBさんを理解する能力があるかどうか」にあるという場合もあるのかもしれない。



例えば、ある思春期の子供を抱えるお母さんは、自分の息子を指して以下のように言うかもしれない。


「最近、うちの息子が何を考えているのか、さっぱり分からないんですよ。」


その場合、本当の問題は、母と子のどちらにあるのだろうか。


もしかしたら、その子は凡庸な母親の理解をはるかに超えた非凡なことを考えているのかもしれない。



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