パクリについて考える。
企業間の買収には2種類ある。
1.友好的買収
2.敵対的買収
例えば、A社がB社を買収する場合、A社がB社の許可を得て買収するのが前者、得ないで買収するのが後者である。
前者の場合、その買収は、B社にとっても利益があり、後者の場合、必ずしもそうではないのが普通である。
ところで、引用にも2種類ある。
1.友好的引用
2.敵対的引用
例えば、著述家のAさんがBさんの文章を引用する場合を考えてみる。
友好的引用とは、引用者であるAさんが、引用元であるBさんの許可を得て行う引用である。
この場合、結果的に、その引用は好意的なものであり、Bさんにとっても利益があるのが普通である(そうでない場合もある)。
Bさんにとっての利益とは、例えば、以下のような利益である。
1.経済的利益(印税など)。
2.引用文の作者としての認知度。
3.その文章を読んだ人間による、引用文の作者に対する敬意。
これに対して、敵対的引用とは、引用者であるAさんが、引用元であるBさんの許可を得ないで行う引用である。
いわば、無断引用である。
この場合、その引用は必ずしも好意的なものではなく、Bさんにとって利益があるとは限らない。
無断引用(敵対的引用)は、さらに以下の2種類に分けられる。
1.否定的無断引用
2.肯定的無断引用
否定的無断引用とは、引用元の考えに共感しない人間が、それを否定するために許可を得ないで行う無断引用である。
それに対して、肯定的無断引用とは、引用元の考えには共感するが、許可を得ないで行う無断引用である。
(なお、友好的-敵対的、肯定的-否定的の並び順は逆でもよい。)
肯定的無断引用は、さらに以下の2種類に分けられる。
1.匿名ではない肯定的無断引用
2.匿名での肯定的無断引用
匿名ではない肯定的無断引用とは、引用元を明かした上での無断引用であって、他意のない無断引用である。
匿名での肯定的無断引用とは、引用元を明かさずに行う無断引用である。
匿名での肯定的無断引用が意図的に行われるのが、いわゆる、受け売り、盗用、パクリである。
(匿名での肯定的無断引用にも、他意のないものはありうる。)
では、受け売り、盗用、パクリは何故行われるのか。
それは、友好的引用において、本来であれば、引用元が正当に受けるべき、例えば、以下のような利益を、引用者が横領するためである。
1.経済的利益(印税など)。
2.認知度。
3.その文章を読んだ人間による敬意。
個人的な話ではあるが、昔、こんなことがあった。
大学時代のことだったと思う。
私は20人ほどの男女とサークルの合宿に行った。
ある夜、私は男数人と飲んでいて、その席で、何かけっこうな話をした。
人生についての個人的な私見、すなわちこのブログで書いているようなことを語ったのではないかと思う。
すると、その話を聞いていた男たち数人は私の話にひどく感心していた。
さて、その翌日である。
私が朝起きて、廊下を歩いていると、そのサークルで一番かわいい女の子、B子さんが私の方にやってきて言った。
「ねえねえ、toraji君、知っている。A君って偉いんだよ。私、感心しちゃった。」
何の話かと思って聞いてみると、そのしばらく前に、A君があるいい話を聞かせてくれて、感心したと言うのである。
いい話と言うのは、私が昨日男数人に話して聞かせた話である。そして、A君はその中にいたのである。
要するに、A君は、その話をB子さんに自説のように話して聞かせていたのである。
(A君はこういうことをしかねない、やたらと調子のいい男だった。)
私はあきれてものが言えなかった。
より抽象化して言えば、こういうことってあるんじゃないか。
Aさんが、Bさんによい話を聞かせる。
Bさんが、それをさらに他の人たちに話して聞かせる。
しかし、そのときに、BさんはそれがAさんから聞いた話であることを意図的に伏せて話す。
すると、その話を聞いて感心した人たちは、てっきりその話を考えたのがBさんだと思って、Bさんに尊敬の念を向ける。
本来ならば、その尊敬の念は、Bさんではなく、Aさんが受けるべきものである。
私たち人間は、社会に対して善いことをすれば、それに対して尊敬という報酬を受けることができる。
知的財産の創出においては、特にそうである。
ところが、世の中には、この「社会に対する善いこと」をしないでおいて、尊敬だけを受けたがるような連中もいるのである。
すなわち、稲垣足穂の言う「横着者」であって「玉子丼の上皮だけ食べようという手合い」である。
そういう生き方は、長い目で見れば、ご本人にとって決してよいことではない。
例えば、上の私の大学時代の話において、もしかしたら、A君は以下のように弁明するかもしれない。
「torajiの話があまりにも素晴らしかったから、ぜひみんなに紹介したいと思ったんだ。」
それはそれで大いに結構なのである。
本当の問題は彼の内心における誠実さである。
ケータイやインターネットが普及し、コミュニケーション万能の現代において、自分から知的財産を作り出そうとする人間はずいぶん減ってしまったような気がする。
誰も彼も、話す内容は、「クチコミ」という名の受け売りばかりである。
「ねえ、知っている?○○って、××なんだって。」
(それが正しいことを、君は自分で確認したのだろうか。)
ある人から聞いた話を、それを知らない他の人に流して、尊敬という名の利ザヤを稼ぐ生き方が、ケーブル型の人たちの間で流行っているのかもしれない。
(「私は有名人の知人だ」という自己紹介の類も、これと同じ動作原理である。)
なお、ある人の創作物がパクリによるものであるかどうかを見極める一つの基準は、その一貫性である。
複数の人間からパクリをしている人間の創作物は、大体において一貫性がない。
例えば、受け売りが多い人の話は、どこか一貫性がないものである。
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