10代のころ、僕はロック音楽や漫画が大好きだった。
しかも、娯楽として鑑賞していたわけではなく、そこに何かこれまでにない新しいものがあるのだと信じて、夢中になっていた。
ところで、その頃、僕や仲間たちの間では、お互いに何かよい作品を見つけては、持ち寄り、以下のような発言を繰り返していた。
「これこそ、世界で一番素晴らしい作品だよ。」
例えば、僕の友人でAくんという人がいた。
で、彼はロックミュージシャンのX氏が大変お気に入りだった。
で、ある日、X氏が新作の音楽アルバム「α」を発表した。
すると、Aくんは興奮気味にこう言うのである。
「俺、昨日、Xのαを買って聞いたんだけど、これが最高なんだよ。
今までこんなロックアルバムを作ったやつなんていないぜ。
これこそ世界最高のロックアルバムだな。
まあ、これに比べたら、世の中に出回ってる全てのロックアルバムは駄作と言わざるを得ないね。」
で、彼が上のように言うと、たいてい、他の者たちから以下のような反論が返ってくるのである。
「何言ってるんだよ。俺もαは聞いたけど、Xの作品ならαより前作のβの方がずっと上だぜ。βに比べたら、αは駄作だな。」
すると、別のやつがこういうのである。
「いやいや。それよりYの新作「γ」の方がずっと上だな。だいたい、X自体、Yに比べたら、全然大したことないだろ。」
僕たちは、若い頃、何か、こんな会話を繰り返していた。
ところで、僕は、今、この年になって、上のような会話を思い出してみると、以下のような2つの疑問を覚える。
疑問1 「素晴らしさに順位はつけらるのか?」
陸上競技の選手のうち、誰が一番100m走が早いかについて判断するのは簡単だが、素晴らしさについて順位をつけるのは難しい、というよりも、不可能なのではないか。
それには何か基準があるのだろうか。
あるいは、仮に、あるひとが素晴らしさに順位をつける基準を持っていたにしても、それとは別に、以下の疑問も残る。
疑問2 「どうやってそれが世界最高であることを確認するのか。」
仮にある人に素晴らしさに順位をつける基準があったとしても、どれが世界最高であるかを判断するためには、実際にありとあらゆる世界中の音楽アルバムを聴き比べなければならないが、それは事実上不可能だろう。
そう考えてみると、「世界一素晴らしい」は、「世界一早い」などに比べて、事実として確認することが出来ない。
要するに、僕たちは、若い頃、事実ではないことで、あれこれと言い争っていたわけだ。
上のことから、以下のような結論が導き出される。
ある人に疑問1が解消されたとして、
「理論上、『世界一素晴らしいもの』は見つけられる。」
また、
「事実上、『素晴らしいもの』は見つけられる。」
しかし、
「事実上、『世界一素晴らしいもの』は見つけられない。」
これが理解できない人間が、世界一素晴らしいものを巡って、各種の宗教戦争や芸術論争を引き起こすのである。
結局のところ、「世界一素晴らしい」というのは、言わば誇張であって、単なる「感激の気持ちの表現」に過ぎない。
だから、上のようなことを言うのは、各自の自由ではあるが、聞く側からすれば、そこには何の保障もないのである。
ところで、僕たちは「陸上競技の選手のうち、誰が一番100m走が早いか」について論争したりしない。
実際の結果を見てものを言えばよいからだ。
そう考えてみると、僕たちが論争をするのは、常に『言い得ないこと』を議題にしているときに限られている。
そして、僕たちがしばしば『世界一素晴らしいもの』について論争をするのは、『世界一素晴らしいもの』が『言い得ないもの』だからである。
つまり、
「世界一素晴らしいもの ⊆ 言い得ないもの」
である。
ところで、ウィトゲンシュタインは言っている。
「言い得ないことは言うべきではない。」
これが正しければ、「世界一素晴らしい!」という発言は、本来、言うべきではないのである。
(以下、続く)
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