2007-09-09 18:28:09
【寓話】片翼の天使



あるところに三人の天使がいた。


Aさんは極めて大きな翼を持っていたので、誰よりも高く、遠く飛ぶことが出来た。


Bさんは極めて小さな翼を持っていたので、誰よりも低く、短い間しか飛ぶことしか出来なかった。


それに対してCさんは、Aさんのように大きな片翼と、Bさんのように小さな片翼を持っていた。


そのため、Cさんは両翼のバランスが取れず、飛ぶことが出来なかった。


それで、いつもAさんやBさんが飛ぶのを地上から眺めていた。


しかし、Cさんは内心ではいつもこう思っていた。


「Aさんは立派な両翼を持っていていいな。


自分もあんな両翼を持っていたら。


しかし、そんな俺でも、あのBさんよりはマシというものだ。


だって、Bさんは両翼ともあんなに貧弱なんだもの。


飛ぶ格好だってみっともないし。


それに比べたら、俺は片翼だけでもAさん並みのものを持っているんだ。


だから、俺の方がBさんよりもマシというものだ。」


ある日、神様がCさんのところに訪れて、言った。


「今日は、お前に話があって来たのだ。


お前の翼の大きさは左右が異なるが、その理由について話そう。


実は、わしがお前を作った直後に、悪魔がいたずらをして片翼を別のものに付け替えてしまったのだ。


本来ならば、お前の両翼はBさんと同じぐらいになる予定だったのに、


悪魔がお前の片翼を、Aさんと同じ大きさのものに取り替えてしまったのだ。


それで、お前は今日まで飛ぶことが出来なかったのだ。


しかし、お前が望むのならば、私がその大きな片翼を本来の大きさのものに取り替えてやろう。


そうすれば、Bさんのように飛ぶことが出来るようになるぞ。」


それを聞いたCさんは、あっさりと断わった。


「せっかくですが、お断りします。


私はこの大きな片翼を誇りにしています。


両翼ともBさんのようになるのは嫌です。


せめて片翼だけでもこの大きさのままでいさせてください。」


神様は言った。


「それではいつまでたっても、空を飛ぶことが出来んぞ。」


それに対して、Cさんは答えた。


「このままでかまいません。それでも飛べるように努力します。


そして、いつかはAさんのように高く飛んでみせます。」


すると、神様はそれ以上は何も言わず、帰っていった。


その後も、Cさんは一生懸命飛ぶ練習をしたが、いつまでたっても飛ぶことが出来なかった。



別の話。


あるところに、三人の女性がいた。


A子さんは大変な金持ちの家に生まれ育ち、容姿にも恵まれていた。


B子さんは大変貧しい家に生まれ育ち、容姿にも恵まれなかった。


C子さんはB子さんと同じぐらい大変貧しいうちに生まれ育ったが、A子さんと同じぐらいに美しかった。


それで、そのC子さんはいつもこう思っていた。


「私は貧しい家庭に生まれ育ったが、容姿には恵まれた。


だからこの容姿を武器にして、のし上がり、いつかはAさんのように大金持ちになってやる。」


しかし、実際には、C子さんの思ったようにはいきませんでした。


その容姿の美しさに惹かれ近づいてきた有能な男たちと結婚しては別れるということを繰り返していました。


その一方で、B子さんは相性の合う、相応の男性を見つけて、十分幸せに暮らしました。


そして、C子さんは、気が付くと、B子さんよりも惨めな人生を送っていました。



人間は誰しも野心というものを持っていますね。


さて、この野心というものには、ひとそれぞれ強弱がありますが、その強さはいかにして決まるのでしょうか。


私は、それは、その人が生まれつき持っている、一番の幸運な点と一番の不運な点の差によって決まるような気がします。


ある人に、何かしらの幸運があったとしても、別の不運との差が大きければ、その差を埋めようとして、無理な人生を送ったりするのではないかしら。


そして、その結果として、一番、幸福になれなかったりするのではないかしら。


逆に、その差が少ない人は、たとえ、いろいろなことに恵まれなかったとしても、それなりに幸せに暮らすのではないかしら。


何か、そんな気がするのです。






2007-12-22 08:37:59
【寓話】粘土のたとえ



あるとき、師は以下のたとえ話を始めた。


「あるところに幼稚園がある。


その幼稚園の先生は毎朝、園児たちに粘土を渡す。


すると園児たちは一日中あれこれと粘土細工をする。


そして、各自がいろいろな形を作り出す。


終業時になると、先生は園児たちから粘土を回収する。


園児たちが帰宅した後、先生は、全ての粘土を集め、捏ね直して、明日の朝、また園児たちに配る。」


すると、弟子たちは師に尋ねた。


「上のたとえ話の意味を説明してください。」


すると、師は言った。


「幼稚園はこの世。


先生は神。


園児たちは人間の肉体。


粘土は魂。


園児の一日は人の一生。


始業は生。


終業は死。


魂は人の一生の活動の中でさまざまに変化する。


しかし、終業後、全ての粘土は集められて、ひとつにされる。


そして、再び、分配される。


よって、各自の昨日の粘土と今日の粘土は同じものではない。」


すると、ある弟子が尋ねた。


「粘土が回収されて、元のようになるのであれば、


園児たちは何のために粘土を捏ねらなければならないのでしょうか。」


すると、師は答えた。


「その理由は実際の幼稚園の先生に尋ねなさい。」


また、ある弟子は尋ねた。


「粘土が魂であって、粘土がいったん回収されて、混ぜ合わされたのちに、再び分配されるのであれば、我々は如何にして以前と同じ形で生まれ変わるのでしょうか。」


すると、師は答えた。


「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。澱(よど)みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」






2007-08-29 21:39:47
【寓話】許しは金で買えるか



あるところに、Aさんという人と、Bさんという人がいた。


Aさんは大変な金持ちで、Bさんは大変貧しかった。


二人は友人だった。


ある日、二人は待ち合わせをした。


しかし、二人とも、寝坊をしてしまった。


金持ちのAさんは高速道路をフェラーリですっ飛ばして、約束の場所に何とか間に合わせた。


貧乏なBさんは一般道を中古の乗用車でのろのろ走ったが、間に合わなかった。


遅刻したBさんはAさんに謝り、AさんはBさんを許してやった。


Aさんは寛大な人だ。



二人で遊んだ帰り、貧乏なBさんは所持金がほとんどないことに気がついた。


Aさんはお金をBさんに貸してやり、Bさんは事なきを得た。


AさんはBさんに言った。


「無理に返さなくてもいいよ。」


BさんはAさんに頭を下げた。


Aさんは物惜しみをしない人だ。



さて、その帰り道の途中、二人が立ち寄った喫茶店で休憩をした。


二人は雑談をしていた。


ある話題のとき、Aさんがふざけて、Bさんの背が低いことをからかった。


Bさんはチビだった。


Bさんは笑って、Aさんに「そう言う君こそ、ハゲじゃないか」と言った。


Aさんはハゲだった。


すると、Aさんはがらりと態度が変わって、こう言った。


「君はなんてひどいことを言うんだ。


もう君なんか絶交だ。


二度と口を利かない。


さっき貸した金も今すぐ返してもらいたい。」



論語にあるね。


「貧しくして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し。」



許しは2種類ある。


金で買える許しと金では買えない許し。


驕ることのない許しは金で買える許し。


怨むことのない許しは金では買えない許し。


金で買える許しは、値段は高いが、買えなくはない。


金では買えない許しは、値段は安いが、それを買うのは難しい。


金では買えない許しは、貧しい人が持っている親の形見に似ている。


世間的にはたいした値打ちはないが、その人から買い取ることは難しい。






2007-10-06 07:42:33
【寓話】どこに向って進むべきか



あるところに山があった。


山のふもとには広大な森が広がっていた。


その頂点を目指して、4人の人がばらばらに森に入っていった。


彼らは無線で連絡を取り合っていた。



あるとき、Aさんが言った。


「山の山頂に向って東にずっと歩いているが一向にたどり着かない。」



するとBさんが言った。


「何を言っているんだい。山の山頂は西だよ。逆方向に歩いているんじゃないか。」



するとCさんが言った。


「AさんもBさんも違うよ。山の山頂は南の方角だよ。」



するとDさんが言った。


「いやいや、北の方角だよ。みんなどっちに歩いているんだい。」



彼らはお互いに混乱した。



しかし、実は、彼らの言っていることはそれぞれ正しい。


何故なら、Aさんは森の西側から、Bさんは森の東側から、Cさんは森の北側から、Dさんは森の南側から登山を始めただけのことなのだから。



西側から登り始めた人は、東に向う。


東側から登り始めた人は、西に向う。


西側から登り始めた人は、「山に登るためには、東へ向かうべきだ」と主張する。


東側から登り始めた人は、「山に登るために、東へ向う必要はない」と主張する。


Aは持っているがBは持っていない人は、「BはAよりも大切だ」と考え、AよりもBを求める。


Bは持っているがAは持っていない人は、「AはBよりも大切だ」と考え、BよりもAを求める。


カルシウムが不足している人はカルシウムを求める。


鉄分が不足している人は鉄分を求める。


「人間にとって必要なのはカルシウムか?鉄分か?」という議論は、議題自体が誤っており、意味がない。


彼らが最終的に求めているものは同じものだ。


しかし、今求めているものが正反対だから、意見が食い違い、対立する。



世の中において、いろいろな団体が政治的に対立する。


しかし、両者の主張の違いは、お互いに相手側にあるものを求める気持ち、すわなち相互理解の欲求から生じていることが少なくない。






2007-10-02 21:47:55
【寓話】飽きっぽさという才能



あるところに1人のお母さんと3人の息子がいた。


あるとき、息子たちが母さんに、パズルゲームのおもちゃが欲しいとねだった。


そこで、お母さんはそれぞれにひとつづつ買い与えた。


数日後、Aちゃんはそのパズルゲームで一生懸命遊んでいた。


Bちゃんはそのパズルゲームが難しくて、途中で放り出してしまった。


Cちゃんはそのパズルゲームが簡単すぎて飽きてしまい、放り出してしまった。


それで、BちゃんとCちゃんはお母さんの元に行き、こう言った。


「お母さん、この間買ってもらったゲーム、もう飽きちゃったよ。新しいのを買って!」


すると、お母さんは怒って言った。


「この間、買ってあげたばかりなのに、もう飽きちゃったの?


ホントにあんたたちは物を大事にしないんだから。


Aちゃんを見習いなさい!」


BちゃんとCちゃんは叱られて、しょげてしまった。



さて、上のお話において、お母さんから見たら、BちゃんとCちゃんは同じに見えたようだけれども、実際にはどうだろうか。


本人たちの立場に立ってみたら、その事情は全然違うのではないだろうか。


Bちゃんはともかくとして、Cちゃんがそのパズルゲームに飽きてしまったのは叱られるような悪いことなんだろうか。


むしろ褒められるべきことなんじゃなかろうか。


ついでに言えば、お母さんは彼らに対して、Aちゃんのことを褒めていたけれども、実際にはどうだろう。


Aちゃんが、いつまで経ってもパズルに夢中になっているのは、本人がいつまで経ってもそれを解けないでいるからに過ぎないのではなかろうか。



僕は昔から思うのだけど、人間にとって、飽きっぽさというのは、ひとつの才能なんじゃないだろうか。


結局のところ、Cちゃんが上のパズルゲームに飽きてしまったのは、彼がその本質を見抜いてしまっただろう。


一般に子供は飽きっぽいものだけれども、それは彼らの吸収力が大人のそれよりずっと高いからだろう。


大人はパズルゲームを与えられても、なかなか飽きることが出来ない。


しかし、ある種の子供たちは簡単にそれに飽きてしまう。



さて、本題に入ろう。


世の中には飽きっぽい人っていますね。


でも、この飽きっぽい人って、よく見ると、2種類ある。


Bちゃんのような人と、Cちゃんのような人。


前者は、難問に出くわすと、それを説くことが出来ず、それを説こうとして試行錯誤することに飽きてしまう人。


後者は、難問に出くわしても、それを難なく解いてしまい、もはやそれに興味を抱かない人。



ヘルマン・ヘッセの小説で「シッダールタ」という作品がありますね。


この小説には、2人の登場人物が出てきますね。


ひとりの名前はシッダールタ、もうひとりの名前はゴーヴィンダ。


2人は、お互いに思うところがあって、ともに年老いた沙門たちの元に弟子入りする。


しかし、シッダールタはあっという間に、その教えを習得しきってしまい、飽きてしまう。


ところが、ゴーヴィンダの方はいまだに悟りきらず、いつまでも彼らの弟子でいようとする。


その後、二人は、沙門を捨て、ゴータマなる仏陀の元に向うが、ゴーヴィンダだけが弟子入りし、シッダールタは弟子入りを見送る。


その後、長い歳月が過ぎて、二人は再会するが、そのときにおいても、ゴーヴィンダは相変わらず、ゴータマの弟子だったのに対して、シッダールタは誰の弟子でもなかった。


しいて言えば、川こそが、彼の師だった。


そして、より深い悟りを開いていたのは、シッダールタだった。



人間という者は、よいものに出会うと、それにいつまでも親しむものですね。


しかし、あまりそれを過大視しすぎると、いつまで経ってもそれから抜け出せず、それ以外の素晴らしいものに目が向かなくなったりします。


そして、それが、その人の人生を決定付けたりしますね。


例えば、こういう人っていますね。


音楽で言えば、クラシック音楽ばかり聞いている人、ジャズばかり聞いている人、ビートルズばかり聞いている人。


もっと広く言えば、音楽しか興味のない人、文学しか興味のない人、政治問題しか興味のない人、コンピュータしか興味のない人。


僕はそういう生き方って、もったいないなあと思う。


あるものが素晴らしいのはその通りなんだけれども、素晴らしいものはそれだけではないだろうにと思う。


人間は生涯をかけて、もっといろんなことに取り組んだらいいと思う。


で、僕は、昔から思うのですが、人間が見聞を広げるために、一番役に立つスキルは、実は、飽きっぽさなんじゃなかろうか。


飽きっぽさこそが、人間が執着から抜け出すためのもっとも有力な手段なんじゃなかろうか。


飽きっぽさは本質を見抜く能力であり、見切りをつける決断力の高さでもあると思うのですよ。



でも、この飽きっぽさというもの、案外、天賦の才能なんですよね。


僕ももうちょっと飽きっぽかったらと思うことがあります。


もうちょっと飽きっぽかったら、いつまでも同じことばかり考え込まなくてもいいのに。


もうちょっと飽きっぽかったら、いつまでも同じCDを繰り返し聞かなくて済むのに。


もうちょっと飽きっぽかったら、家の中のたいていのものは処分できるのに。


何て思うんですけどね。






2007-10-29 21:35:25
【寓話】無神論者



あるところに、Aさんというひとりの青年がいた。


彼は無神論者を自認していた。


彼はいつも口癖のように言っていた。


「この世には神も仏もない。


死後の世界なんてない。


幽霊なんていない。」



あるとき、彼はお寺の前を通り過ぎた。


彼は鼻で笑いながら通り過ぎた。


あるとき、彼は教会の前を通り過ぎた。


彼は首を横に振りながら通り過ぎた。


あるとき、彼は神社の前を通り過ぎた。


彼はにやにや笑いながら通り過ぎた。



さて、彼の友人でBさんという人がいた。


BさんはAさんと違って、大のオカルト好きだった。


ある日、BさんがAさんに言った。


「君、知ってるかい?


道を歩いていると、霊柩車が通ることがあるだろう。


そのとき、決して霊柩車に向って親指を立ててはいけないんだぜ。


そうすると、特にふざけた気持ちでそうすると、


霊柩車の中の遺体から離れていない幽霊に祟られるんだって。


ホントにそれをやって、数日後に死んだやつもいるっていう話だぜ。」


すると、Aさんはいつものように冷淡に鼻で笑っていった。


「君はホントにバカだね。


そんなわけないだろう。


霊柩車に向って親指を向けて祟られるって?


だったら、どれだけの、霊柩車の周りを歩いている人間が祟られることになるって言うんだよ。」


そう言って、AさんはいつものようにBさんの話を取り合わなかった。



さて、その日の夕方。


Aさんが帰り道を歩いていると、一台の霊柩車が通り過ぎた。


ぎょっとしたAさんは霊柩車が通り過ぎるのを確認してから、そっと握りこんだ親指を取り出した。






2007-11-02 23:01:59
【寓話】安息日に働く



イスラエルのある村に一人の青年がいた。


青年は病気を癒す不思議な力を持っていた。


ある安息日に、彼は一人の病人を見かけた。


そこで彼がその病人を癒そうとしていたところ、ある律法学者たちがそれを見咎めて言った。


「律法によれば、安息日に働くことは許されていない。」


すると青年は反問した。


「私の話を聞きなさい。


あるところにひとりの医者がいた。


彼はとても優秀な医者だった。


ある夜遅く、街の大金持ちの召使が彼のところにやって来て、言った。


『先生、助けてください。


うちの主人が急病で苦しんでいます。


どうか、治療をしてください。』


医者は夜遅いので断わろうとした。


すると召使はこう言って、再度頼み込んだ。


『夜遅いのは存じ上げております。


しかし、今すぐお越しいただければ、1000デナリお支払いいたします。』


(1デナリは約1日分の給与に当たる額である。)


それを聞いて、医者は夜遅くであるのにも関わらず出かけて行くことにした。


ところで、その道中、彼らは病気で倒れている人を見かけた。


貧しそうな身なりで、お金もほとんど持っていないようだった。


そのとき、医者は考えた。


『この者は、今助けなければ、明日の朝には死んでしまうだろう。


しかし、今、私が、この者を助けたところで、私には1デナリの稼ぎにもなるまい。』


そこで、この医者はこの行き倒れている人を見捨てて、金持ちのもとへ急いだ。


さて、ここでお前たちに問う。


この医者はこの行き倒れている人を見捨てることで、損をしたか、得をしたか。」


すると律法学者は答えた。


「得をしました。」


「いくらか。」


「999デナリです。」


「そうだ。


つまり、この医者は病人を助けるのではなく、見捨てることによって、999デナリの収入を得たというわけだ。


では、ふたたび、お前たちに問う。


病人を助けることが労働に当たるのであれば、病人を見捨てることもまた労働に当たるのではないか。


人間は、困っている人を見捨てることで、暗黙のうちに収入を得ているのではないか。


であれば、安息日に、目の前にいる病人を助けようが、見捨てようが、結局は律法に触れるのではないか。」


律法学者たちは何も言い返すことが出来なかった。


青年は病人を癒して立ち去った。






2007-11-16 23:19:10
【寓話】ケーキの分量



あるところに、数人の人たちがいたんだそうです。


で、彼らのためにケーキが用意されたんだそうです。


丸いケーキが。


で、ある人が切り分けることになったんだけれども、その人はとても不器用な人で、人数分に切ったんだけれども、かなり大きさがバラバラになってしまったんだそうです。


で、それを各自に分配したところ、大きなケーキが回ってきたAさんはこう思ったそうです。


「大きなケーキが回ってきて、僕は幸運だ。」


それに対して、小さなケーキが回ってきたBさんはこう思ったそうです。


「小さなケーキが回ってきて、僕は不運だ。そして、この切り分け方は不公平だ。」


で、Bさんは抗議をしたんだそうです。



さて、上の例を考えてみると、面白いことに気がつきますね。


まず、ケーキの分量が多いから幸運とか、少ないから不運とかいうのは、個人的な話です。


それに対して、上のケーキの切り分け方が不公平であるというのは、全体的な、客観的な話ですよね。


それは、Aさんから見ても、Bさんから見ても頷けるぐらい自明のことです。


しかし、不思議なことに、そのことを、Bさんは考えるのに、Aさんは考えないんですね。


それは何を意味しているのかというと、小さなケーキが回ってきた人はその状況を客観的に考えているのに対して、大きなケーキが回ってきた人は必ずしもそうではないということです。



これは抽象化して言うと、以下のようになります。


命題1 「取り分の少なかった者は真理を求めるが、取り分の多かった者は必ずしもそうではない。」


取り分の少なかった人は、抗議を申し立てることによって、せめてその取り分を五分に戻そうとするわけです。


そうしたときに、僕は思うのだけれども、その五分こそが、真理というものなのではないでしょうか。



ここで、キリストの以下の有名な言葉を考えてみましょう。



「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
"Blessed be ye poor: for yours is the kingdom of God."
(ルカによる福音書 6-20)


「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」
"But woe unto you that are rich! for ye have received your consolation."
(ルカによる福音書 6-24)



つまり、命題1は以下のように言い換えられるわけです。


命題1’ 「恵まれていない者は真理を求めるが、恵まれている者は必ずしもそうではない。」


さらに上の「神の国 = 真理」とするならば、最終的には以下のように言うことが出来ます。

命題1’’ 「恵まれていない者は神の国を求めるが、恵まれている者は必ずしもそうではない。」



なお、命題1は、極論して言えば、以下のように言えるかもしれない。



命題3 「一番取り分の少なかった者が、一番正論を言う。」






2007-12-02 21:45:38
【寓話】探検家と考古学者



あるところにAさんという探検家がいた。


Aさんは世界中のあちこちを探検しては、それまで知られていなかった様々な遺跡を発見していた。


また、別のあるところにBさんという考古学者がいた。


Bさんは世界中のあちこちの遺跡を本格的に発掘調査して、様々な研究成果を上げていた。


さて、Bさんは以前からAさんの仕事の成果に興味を抱いていた。


というのは、AさんはBさんの研究対象であるような遺跡を次々と発見していたからである。


実際、Bさんは、Aさんがある遺跡を発見したという知らせを聞くと、いち早くそこへ駆けつけ、本格的な発掘調査を行っていた。


そして、Bさんはそこから様々な未発掘の遺品を探し出しては、何度も大きな考古学的な成果を上げていたのである。



さて、あるとき、Aさんがまた新たな遺跡を発見したというニュースが流れたので、Bさんはさっそくその遺跡に駆けつけた。


すると、Aさんはすでにそこを立った後であった。


そこで、BさんがAさんの発見した遺跡を発掘調査すると、そこからは、例によって未発掘の遺品が次から次へと出てきた。


そこはまるで行儀の悪い人が食い散らかしたパーティー会場の跡のようであった。


そこで、以前から、Aさんの仕事のいい加減さを嘆いていたBさんはAさんに抗議の手紙を書いた。



「拝啓、Aさん。


あなたは、いつも、素晴らしい遺跡を発掘されており、私はいつもその仕事振りに敬服しています。


しかし、本日は、そのあなたに一言申し上げたいことがあり、この手紙を差し上げました。


率直に申し上げますが、あなたの発掘調査のやり方はあまりにもずさんであります。


実際、あなたは、私があなたが発見した遺跡から様々な遺品を発掘し、大きな考古学的な成果を上げていることはご存知かと思います。


どうして、あなたはもうちょっと丁寧な仕事をされないのでしょうか。


ご自分で最後までお調べになれば、完全な発掘をすることが出来るでしょうに。


そうすれば、他人に良い仕事を横取りされることもありませんし、手柄はすべてあなたのものになるでしょうに。


私は、同業者として、見ていて、本当にもったいない気がいたします。


また、あなたが中途半端に知らせた遺跡に、私のような良心的な考古学者より先に、盗掘屋のような者が駆けつけて、未発掘の遺品を盗み出さないとも限りません。


そういう意味でも、今後は、ぜひとも完全な発掘をお願いしたい次第です。


今日は、それを言いたくて、筆を執りました。


乱筆、乱文、あしからずご了承ください。


あなたの友人、Bより。」



すると、Aさんから、返事が来た。


その手紙には、以下のように書かれていた。



「我が友、Bさん、こんにちは。


お手紙ありがとう。


いただいたお手紙に対して感謝すると共に、あなたが誤解されている2,3のことについて説明させていただこうと思います。



まず、第一の誤解ですが、あなたは私のことをご自分の同業者とおっしゃっています。


しかし、それは大きな間違いです。私はあなたの同業者ではありません。


あなたは考古学者ですが、私は探検家です。


つまり、私はあなたと同じ立場で同じ仕事をしているわけではありません。



次に、第二の誤解ですが、あなたは私に今後完全な発掘調査を行うようにと進言されています。


しかし、それも大きな間違いです。何故なら、完全な発掘は私の仕事ではないからです。


探険家の仕事は、世界各地を探検することによって、世に知られていなかった様々な遺跡を誰よりも早く発見し、世に知らせることです。


そのために必要な発掘作業を行うこともありますが、遺跡全体の完全な発掘調査は、必ずしも私の業務ではありません。


その作業は私がやらなくても、あなたのような優秀な考古学者の方にやっていただけることであろうと思っています。


つまり、私の仕事は『発見』であって、『発掘』ではありません。


私は発掘には何の興味もありません。



もう少し正確に言うならば、発掘というのは2種類あります。


ひとつは『発見でもある発掘』であり、もうひとつは『発見ではない発掘』です。


『発見でもある発掘』とは、それがどうすれば見つかるのか、見当も付かないようなものを発掘することです。


それに対して、『発見ではない発掘』とは、それがそこから見つかることが十分に分かっているところから発掘することです。


前者の例が、未発見の遺跡を発見するための発掘であり、後者の例が、発見済みの遺跡を隅々まで追跡調査するための発掘です。


例えて言うならば、前者は海に潜って幻の怪魚を捕獲する行為に似ています。


それに対して、後者はある小さな池の水を抜いて、そこにいる水生物をすべて捕獲する行為に似ています。


前者の仕事を成し遂げるのは至難の業ですが、後者の仕事を成し遂げるのは実際のところ金次第です。


そうすることによって、仮に小さな池の底から幻の怪魚を獲たとしても、そこに探険家として、何の栄誉があるでしょうか。


ですから、私は、一人の探検家として、『発見でもある発掘』には興味がありますが、『発見ではない発掘』には何の興味もないのです。


そういった仕事は、あなたのような分析上手な考古学者の方にお任せしたいと思います。



第三の誤解として、あなたは私が発見した遺跡を私自身が完全に発掘しなければ、盗掘屋によって遺品が盗み出されることを心配しておられることです。


確かに、無骨な盗掘者が貴重な遺品を手荒いやり方で傷付けたりすることはあるかもしれません。


しかし、あなたがおっしゃるような個人的な功績に限定して言うならば、私は、自分の残りの仕事を誰がやるのかについては、特に興味はありません。


何故ならば、一度発見された遺跡からすべての遺品を発掘するのは、結局のところ、誰がやろうとその功績については大差ないからです。


私自身はそういう『誰が得てもよい栄誉』には何の興味もありません。


ゲーテも言っているではありませんか。


「太陽が輝けば、塵も輝く」と。


偉大な仕事がなされたあとであれば、その恩恵によって、剽窃家のような連中が輝くこともあるでしょう。


それよりも、私はひとつでも多くの遺跡を発見し、世界中の人たちにそれを知らしめたいのです。


それこそが、私の一生の仕事であると思っています。



では、ごきげんよう。


あなたの友、Aより。」






2007-08-07 22:34:10
【小説】トマスの夢



ナグハマディ文書に「トマスの夢」っちゅうのがあるのう。


20世紀前半にエジプトで発見された文書で、コプト語で書かれとるらしいわ。


2世紀ごろにグノーシス主義者の人が書いたらしい。


発見した現地の人に危うく薪代わりに燃やされるところじゃったらしい。


長いこと、研究者らの間で独占的に研究されとったけど、最近、ようやく世間に公表されるにいったったのう。


みなも新聞で読んだじゃろ。



全訳は以下の通りじゃ。[]は本文欠落。



「トマスの夢



あるところに、トマスっちゅう男がおった。


あるとき、トマスは夢を見た。


彼 [トマス] は、その夢の中で、この世のものとは [思われないほどの] 美しい花を見たんじゃ。


ほいで、彼 [トマス] は目が覚めると、周りの者たちに、その [花の] 美しさについて興奮気味に [語ったんじゃ] 。


ほいじゃが、みんな、 [馬鹿にして相手にして] くれんかった。


それで、彼 [トマス] は [悔しうなって] 、広場へ出て、[欠落] 大勢の人にその[花の]美しさについて、喧伝して回った [欠落]。


[ほしたら] 、たくさんの人が集まってきた。


ほいでも、彼 [トマス] の話を聞いてくれるもんはおらんかった。



ほいじゃが、彼 [トマス] がそうやって夢で見た花の美しさについて [欠落] 広場で語っておると、 [それを聞いておった聴衆の中に] ヤコブっちゅうもんがおって、こう言うたんじゃ。


『わしも、この間、 [欠落] 夢の中で花を見たわ。それもなかなか [美しかったわ] 。』


それを聞いた聴衆は、こう言うた。


『ほいじゃあ、二人にその [花の絵] を描いてもらおう。それで見比べてみよう。』



それで、二人は、それぞれが、その [夢で見た花の絵] を描いたんじゃ。


ほしたら、二人の描いた絵を、それぞれ見た聴衆は、みな彼 [トマス] の描いた花より彼 [ヤコブ] の描いた花の方が美しいっちゅうたんじゃ。


何でか言うたらのう、彼 [ヤコブ] の方が彼 [トマス] より絵が上手かったんじゃ。


その一部始終を見ておった彼 [トマス] の師は笑うて言うた。 [以下、長い欠落・・・] 」



上の文書にもあるように、人間は生きておると、ひとりだけ、美しいもの、素晴らしいものを見たり、聞いたり、体感したりすることがあるわのう。


ほいじゃが、いくら、そがあな天啓を授かっても、本人がそれを人間の言葉に出来んかったら、誰にも伝えることは出来んわのう。


ほいじゃけえ、人間っちゅのは、日頃からの言葉や表現についての勉強が大切じゃっちゅうことじゃ。



じゃあの。(`ω′)!



P.S.「ヤコブの夢」、そがあなもん、ナグハマディ文書にはないわ。


全然、グノーシスでも何でもないわ。イタズラ坊やの贋作じゃ。(`ω′)!



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