2007-08-26 20:41:06
【思索】新しいことなんて何もない - 受け売りについて


小さい頃、ある子供向けのテレビ番組を見ていたら、とても感動的なBGMが流れていました。僕はあまりにも感動して、そのBGMの入ったレコードを買い、繰り返し聞いていました。その作曲者は名もない人で、子供の僕はその人のことを尊敬していました。しかし、その後、分かったのですが、実はその曲というのはバッハの有名な曲にちょっと手を加えただけのものでした。今考えてみると、あまりに有名な曲なので、その作曲者からすれば、子供向けの仕事として割り切ってやったのかもしれません。まあ、バッハの著作権自体とっくに切れてますしね。それにしても、世の中には、こういうことってよくありますよね。ある創作物に感激して、その創作者に尊敬の念を抱いていたら、実はその人が真の創作者ではなかったという場合ですけれど。


それにしても知的財産って、面白いですね。どんな価値のあるものでも、簡単にコピーしたり、創作者の名前を取り替えたりすることが出来るのですから。なお、知的財産に対する保護法もありますけど、著作権法と工業所有権法(特許法など)だけですよね。


それに対して、例えば、新しい学説や宗教の宗旨は、どちらの保護の対象にもならないですね。何故なら、新しいものの見方、考え方は、「発見」であって、「知的財産(著作物、発明)」ではないから。その上で言えば、科学者にしても、宗教家にしても、彼らの持つ能力として、既知のことを学習する能力と、未知のことを発見する能力は別ですね。科学者にせよ、宗教家にせよ、「先達」として評価される能力は、前者よりも後者にあると思います。

(先達: 1 他の人より先にその分野に進み、業績・経験を積んで他を導くこと。また、その人。先輩。せんだち。「―に学ぶ」 大辞泉)


ときどき、怪しげな新興宗教団体が出てきて、その教祖がありがたいことを言っていたりしますね。そして、「私こそ、イエスをも、仏陀をも超越した者である」なんて言ってたりする。でも、その人の教えを聞いてみると、何とてことはなく、聖書や初期の仏典の、現代的な言い直しだったり、それらの複合化・体系化に過ぎなかったりする。ついでに言っておくと、今日の宇宙物理学者は、全員、「ニュートンをも、アインシュタインをも越えた物理学者」なんですけどね。今日の社会において、アインシュタインを越えた物理学者って、一体、何十万人いるんだろうか。


宗教家って、「宗(むね)を教える人」ですね。だから、宗教家って、2種類ある。


「未知の宗旨を教える人」と「既知の宗旨を教える人」。


ある宗教家が、「開祖」として評価されるのは、その時、場所において、未知のことを発見した場合のみでしょうね。少なくとも、現代のある宗教家が、既知の宗旨を言い換え、ちょっと改良したぐらいで、「先達を上回った」と自称するのは僭越なことだと思うのです。あるいは、今日の情報化社会において、ある宗教家が、あらゆる宗旨を寄せ集めて、"新しい"教義を作り、「かつての宗旨は、私の宗旨の、何分の一に過ぎない」とか言っていたら、何をかいわんやですね。


イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」
And he said, Take heed that ye be not deceived: for many shall come in my name, saying, I am Christ; and the time draweth near: go ye not therefore after them.

(ルカによる福音書 21 8)


なお、ついでに言うならば、「発見する」ということと、「再発見する」ということは別ですね。発見は難しいけれども、再発見は比較的簡単ですね。


僕は、小さい頃、爪きりで爪を切っていて、「てこの原理」を発見した。のちに、それが既知であることを知って、がっかりすると同時に、こう思った。

「僕はもっと早く生まれていればよかった。」

今考えてみると、それは間違いですね。僕がてこの原理を発見できたのは、その爪きりがてこの原理を応用して作られたものだったからに過ぎません。てこの原理を応用して作られた爪きりで爪を切っていて、その原理を発見するのは、そんなに難しいことではありません。何故なら、それは本当の意味での「発見」ではなく、ただの「再発見」でしかないからです。


その上で言えば、今日の社会には、仏教、キリスト教、四書五経などの考え方や言葉がたくさん含まれていますね。漢字熟語にせよ、ことわざにせよ、西洋文学にせよ、風習やしきたりにせよ。そんな状況において、新しい宗旨を「新発見」するのは、まず無理でしょう。極端な言い方をすれば、宗教の宗旨に特許制度があったとしたら、現代の宗教家で特許を取れる人はいないんじゃないですかね。


僕自身、聖書や仏典を読み、インスパイアされて、世の中のことについて考えつくことが多いけれども、大抵の場合、「再発見」でしかありません。僕が考えたのと同じことは、古今東西のあらゆる書物の中にすでに含まれているか、単にその前例がいまのところ見つかっていないというだけのことでしょう。他の人はどうか知りませんが、僕自身の書いているものについていえば、特に新規性はありません。


もし、新規性があるとすれば、それは著作(表現)としてのそれに過ぎないでしょう。例えば、もし僕が、自分の考えを「インターネットの仕組み」に例えて説明したとしましょう。その場合、その表現は聖書や仏典には含まれないでしょうが、そこで説明しようとしている内容は特に新しいものではないでしょう。


僕に出来ることは、古代からある正論から、陳腐化した古い表現を引き剥がして、現代的な言葉で表現し直すだけです。






2007-09-11 07:24:01
【思索】逆説の難しさ


陳腐化してきている正論を、逆説で補完しようとする場合、正論について詳しく述べておかないと、誤解を生みやすいですね。そうしないで、逆説を説くと、

「この人は正論を否定しているのだ」

とか、

「この人は正論で説かれていることに気づいていないのだ」

とかという受け取り方をされてしまうことがしばしばあるようです。


僕の場合、昔からなんですが、例えば、Aという正論を補完するために、Bという逆説について述べると、相手の人から、

「あなたはBのようにおっしゃるけれども、Aという考えもあるんですよ。」

という返事が返ってくることがしばしばあります。


そういう場合、どうコメントしたらいいのだろうか、としばしば考えてしまいます。なんというか、上のようなご意見をいただくと、いつも話が噛み合ってないような気がするのです。まず、僕自身、そのAという正論を知らないわけではありませんし、否定もしていません。その上で言うと、僕には、上のような返事は、逆説の逆説であって、ただの正論に戻っているような気がします。


正論について改めて述べると、Aという正論が間違っているのではなくて、それが陳腐化してくると、それを手前勝手に拡大解釈して免罪符としたり、過大に考えすぎる人が出てくるのだと思うのです。で、それこそが、次の時代に現れる問題の前兆のような気がするのです。それを早めに食い止めることは出来ないかと思うのです。
もっと上手く説明が出来るといいのだけれども、時間の関係もあって、なかなか長々とした説明が出来ないでいます。


その上で言えば、僕自身、基本的に正論は否定していないので、その点についてはご心配いりません。


時間がないので、切り上げます。いずれまた。






2007-11-20 21:44:40
【思索】加害者の罪の深さを被害者は計れるか


何年も前のことではあるけれども、僕は以下のようなことを考えてみた。


問題 「加害者の罪の深さを被害者は計れるか」



昔、こんなことがあった。


ある日、僕は電車に乗っていた。山手線だったと思う。で、これに乗って、席に座り、ぼうとしていると、ある駅で若くて美しい女性が乗ってきた。で、彼女は僕の隣に坐ったのだけれども、しばらくして居眠りを始めてしまった。よほど眠かったのか、やがて僕にもたれかかってきた。僕はなんとなく悪い気がしなくて、そのままにしていた。で、僕は内心でこう思った。


「この女性は疲れているに違いない。僕は全然かまわないので、好きなだけもたれかかってください。」


それからしばらくして、背広姿の中年のおじさんが電車に乗ってきた。で、そのおじさんは彼女とは反対の僕の隣の席に座った。で、しばらくして、このおじさんも居眠りを始めた。で、このおじさんも僕にもたれかかってきた。なんとなく加齢臭がするし、暑苦しい。で、僕は内心でこう思った。


「このおじさんはなんて非常識なんだ。電車の中で居眠りした上に、何の関係もない他人にもたれかかって、社会人として恥ずかしくないのか。」


要するに、このとき僕は、以下のように思っていたことになる。


「僕にもたれかかる女性に罪はないが、おじさんには罪がある。」


しかし、冷静に考えてみると、この女性と、おじさんの間に何の罪の違いがあるのだろうか。両者のやっていることは同じではないか。

(あるいは、今、ここに2人の人間がいて、一方が悪意からあることを第三者に対してなし、他方が悪意なくにあることを第三者に対してなし、結果的に同じ量の加害を生むということもあるだろう。つまり、悪意があっても、なくても、同じだけの被害を他人に与えることはあるだろう、ということである。)



上の気付きを言い換えると以下のように言える。


命題 「被害者は被害量によって、加害者の加害量を推測することは出来るが、それは必ずしも、加害者の罪の大きさに比例しない。」


これはさらにこう言い換えられる。


命題 「罪の大きさは被害量に比例しない。」



被害者の人は、被害量を基にして、加害者の加害量を測ろうとする。そこまでは分かるとしても、その量をそのまま罪の大きさ、もっと言えば、加害者側の悪意の量に当てはめるのは無理があるように思う。実際のところ、悪意の量と加害の量と被害の量は比例しない。

(加害の量と被害の量が比例しないことについては、以前にも書いた。

【社会】被害量と加害量の違いについて
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036974535.html  )


つまり、道徳的な善悪と、法律的な善悪は異なるわけだけれども、それが被害者の視点では区別がつきにくいわけだ。これは被害者側のものの見方が間違っているという話ではなくて、その立場から冷静にものを見るのは、誰がその立場であったとしても、難しいという話である。これは善意の場合も同じである。つまり、以下のようにも言える。


命題 「施しを受けた人は、施した人の善意の量を測りきれない。」


それは純粋な善意からかもしれないし、下心からかもしれない。



ただし、上の命題は逆に以下のように言い換えられることも忘れてはならない。


命題 「加害者の罪の自覚のなさは被害量を低減しない。」


つまり、「悪気はなかった」ことが、「被害者に被害を与えなかった」ということではないということである。






2007-11-21 21:55:06
【思索】この世で二番目に大切なもの


あるとき、Aさんがこう言った。


「人生において一番つらい決断は、その人にとって二番目に大切なものを諦めることである。」


それに対して、Bさんがこう言った。


「人生において一番つらい決断は、その人にとって一番目に大切なものを諦めることではないのか。」


それに対して、Aさんが答えた。


「一番大切なものを諦める人間はいない。」


そう言うと、さらにBさんがこう言った。


「人間は一番大切なものを失うときだってある。例えば、愛する恋人と死に別れるとか。」


それに対して、Aさんが答えた。


「それは『一番大切なものを諦めなければならないとき』であって、『一番大切なものを諦めるとき』ではない。


『諦めなければならない』のと『諦める』のは違う。


人間が何かを諦めなければならないとき、そこにはもはや決断をする余地はない。


故に、それは決断ではない。」


そう言うと、さらにBさんがこう言った。


「しかし、ある人が、この世で一番好きな人との交際を、相手の幸せのために、あえて諦めることだってあるのではないか。」


「なるほど、確かにそれは、その人の人生において一番つらい決断かもしれない。


何故ならば、その人にとって、一番大切なものは『愛する相手の幸福』であって、『自分がその相手と交際するという幸福』は、その人にとってまさに『二番目に大切なもの』であって、その人はそれをまさに『諦める』のだから。」






2007-11-24 21:57:04
【思索】願いの叶わないこともある


いろんな人のブログを見ていると、わりと受験生の人も多いですね。

もうすぐ12月で、追い込みに入っている人も多いようです。中には、「神様、絶対合格させてください!」みたいなことを書いている人もいますね。で、そういった記事を読んでいて思い出したことがあるのですが、僕が受験生だった頃、以下のようなことを考えました。今日はそれを思い出して、書いてみましょう。僕は10代の頃、受験勉強の合間にこんなことを考えていました。



【仮定1】 この世には神様がいる(仮定ですが)。


【仮定2】 神様は人間の何らかの願いを叶えてくれることがある(仮定ですが)。


【命題】 神様は、人間が願えば、どんな願いでも叶えてくれる。


【問題】 上の命題は真か、偽か。


【結論】 偽。


【考察内容】


この世には神様が叶えてくれない願いが2種類ある。


それは以下の2種類の願いである。


1.物理的に不可能な願い。


2.理論的に不可能な願い。


1.の物理的に不可能な願いとは、死んだ人間を生き返らせるというような願いである。


2.の理論的に不可能な願いとは、個々のケースにおいては実現可能であっても、全体としては不可能な願いである。


2.の願いの具体例としては、定員枠争いが挙げられる。


例えば、あるところに、α大学という大学があるとしよう。


その大学では、毎年、大学受験によって、5千人の学生を入学させているとしよう。


それに対して、毎年、1万人以上の受験生が受験に望むとしよう。


そのとき、ある学生が、以下のように願ったとしよう。


「神様、どうか、私をα大学に入学させてください。」


この願いは聞き届けられるだろうか。


否。


何故ならば、1万人以上の受験生が同じことを願えば、神様はそれに答えることが出来ないからだ。


ある一人の学生が、あるものの便宜によって、ある大学に合格することは理論的に可能だが、1万人以上の受験生が全員5千人の定員枠に合格することは理論的に不可能である。



このときの、受験生と神様の関係は以下のようなたとえ話で表すことが出来る。



あるところに、ひとつの家庭があった。


そこには一人の母親がおり、その母親には3人の息子たちがいた。


ある日、隣のおばさんが母親にお饅頭を2つくれた。


それを見た三人息子のうちの一人が、母親にこう言った。


「お母さん、その饅頭のうちのひとつをぜひとも僕にください。」


そのとき、その願いを母親は聞き届けるだろうか。


否。


母親は上の願いを叶えない。


何故ならば、2つしかない饅頭を3人の息子にひとつづつ与えることは出来ないからである。


結局、母親は、ひとりの息子に、その饅頭をまるまるひとつ与えることはないだろう。


饅頭の場合は、切り分けることが出来るから、おそらく、その母親は3分の2ずつ息子たちに与えるだろう。


しかし、饅頭のように切り分けられないものの場合には、その限りではないだろう。



最初に話を戻せば、定員枠が5千人しかない大学受験において、1万人以上の受験生のうちの1人が、自分をその定員枠に入れてくださいと願ったところで、神様はその願いを聞き入れてはくれないだろう。


もし、ある医学部志望の受験生が以下のように願ったとしても、その状況は変わらないだろう。


「神様、私は将来優秀な医者になって、多くの病人を救いたいと思います。ですから、ぜひとも私をα大学の医学部に入学させてください。」


彼は偽善者と呼ばれるだろう。


さらに言えば、上のような願いが叶わないのは受験生本人による願いに限らないだろう。


例えば、ある母親が、以下のように願ったとしても、たとえその願いがどんなに純粋なものであったとしても、やはり叶わないだろう。


「神様、どうか、私の息子をα大学に入学させてください。」


しかし、以下のように願うのならば、神様はその願いを叶えてくれるかもしれない。


「神様、どうか、私の息子が最後まで頑張って受験勉強に取り組んでくれますように。もし落ちたとしても、悲嘆にくれませんように。」


上のような内容の願いであれば、すべての受験生やその親が願うことが出来る。


すべての人が願うことの出来る願いは、理論的に不可能な願いではない。



高校生の頃、僕は大体上のようなことを考えた。


その頃、僕は、毎晩、こんな調子で、いろんなことをあれこれと考えていた。


結局、かく言う僕自身は第一志望の大学受験に失敗した。


(戦略的に言えば、数学の勉強しかしていなかったのが受験勉強の内容としては痛かった。僕は毎晩数学の勉強ばかりしていた。)


その後、20代の頃、僕はときどき以下のように考えた。


「上のようなことを考えている暇があれば、受験勉強に専念していればよかったのではないか。」


しかし、30代になった今、改めて考えてみると、上のようなことを10代の頃に考えてよかった。


もし、上のようなことを10代の頃に考えていなかったら、今の自分が、毎日、ブログに書いているような文章を書けるような能力は、僕に身についていなかっただろうから。


僕は今、自分がこう言った文章を書ける能力を持っていることを神様に感謝している。


僕はもし明日交通事故で亡くなったとしても、別段悔いはない。


まさに、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(論語)である。



ところで、新約聖書(マタイによる福音書 14 13-21)には、パンが増えた話が出てきますね。


あるとき、イエス・キリストの下に5千人の信者が集まってきた。


イエスは彼らに食事を与えたいが、手元にはパンが5つと魚が2匹しかない。


そこで、イエスは、


群集には草の上に坐るようにお命じなった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて群衆に弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
And he commanded the multitude to sit down on the grass, and took the five loaves, and the two fishes, and looking up to heaven, he blessed, and brake, and gave the loaves to his disciples, and the disciples to the multitude.


すると、


すべての人が食べて満足した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
And they did all eat, and were filled: and they took up of the fragments that remained twelve baskets full.



上の話が事実かどうか、あるいは、事実を伝えているかどうか、僕には分かりませんが、少なくとも、以下のようには言えると思うのです。



【命題】 もし、イエスの願いが以下のようなものであったとしたら、何の奇跡も起こらなかっただろう。


「神よ。今、目の前には五千人の人間がいます。しかし、手元には五つのパンと二匹の魚しかありません。ところで、私は大変お腹が減っています。どうか、私に五つしかないパンのうちのひとつをお与えください。」






2007-11-22 22:25:31
【思索】騙されたんじゃなくて、間違えたんだね


これからふたつの例について考えてみよう。



ひとつめ。


昔(25年前)、あるところにT君というあどけない美少年がいた。


T君はガンダムが大好きだった。


ある日、模型屋に行って、ガンダムのプラモを買ってきた。


喜んで家に帰って、よく見ると、それはガンダムじゃなくて、類似品の○○だった。


それで、Tくんは悔しがって言った。


「ガンダムを買いに行ったのに、違うのをつかまされたわ。


チクショー、騙されたわ。(`ω′)! 」



ふたつめ。


あるところにTさんという、30代の苦みばしった成人男性がいた。


この間(2ヶ月前)、そのTさんが風呂で髪を洗おうと思ったところ、シャンプーが切れているのに気がついた。


翌日、Tさんは薬局に行って、シャンプーを買ってきた。


しかし、家に帰って、よく見ると、それはシャンプーじゃなくて、リンスだった。


それで、Tさんは悔しがって言った。


「シャンプーを買いに行ったのに、リンスをつかまされたわ。


チクショー、騙されたわ。(`ω′)! 」



さて、上のふたつの例についての問題。



問題:


両者の根本的な違いは何か?



解:


前者は騙されたのだが、後者はそうではない。



証明:


∵ (何故ならば)、「騙す」という行為には、「そうすることによって、行為者に何らかのメリットがあり、行為者自身がそれを見込んでいる」という暗黙の前提がなければならないが、上のふたつの例を見比べてみると、前者にはそれが見られるが、後者にはそれが見られない。


実際のところ、後者のリンスの製造元である薬品メーカーにも、薬局にも、Tさんに対して、


「リンスをシャンプーであるかのように見せかけて売りつけるメリット」


は何処にもないし、それを意図している形跡もない。


∴ (故に)、後者の例において、Tさんが騙されたと主張するのは正しくない。


Q.E.D. (証明完了)






2007-11-24 09:57:00
【思索】不幸を一般化するとさらに不幸になる


【命題】 不幸を一般化するとさらに不幸になる。



【例】


あるところにA子さんというOLがいた。


彼女は同僚のBさんと交際していた。


しかし、ある日、A子さんはBさんとケンカした。


そして、A子さんはBさんに言った。


「あんたってさあ、とにかく愚痴っぽいのよ。何かあるとすぐに愚痴ばっかり言うじゃない。私、あんたの愚痴っぽいところ、前から嫌だったの。」


そして、A子さんはBさんと別れた。


A子さんが落ち込んでいるのを知って、学生時代の友人C子さんが飲みに連れて行った。


C子さんが尋ねた。


「Bってどんな人なの?」


C子さんはBさんと面識がなかった。


A子さんは答えた。


「すげー愚痴っぽいの。一緒にいるだけでムカついちゃってさあ。ホント、Bって最低!」


「それで別れちゃったんだ。」


「そうなのよ。」


「要するに、A子は、そう言う男が嫌いなのね。」


「そうそう。私、Bみたいな愚痴っぽい男って、大嫌い!」



それから、数日後、A子さんは別の友人たちと飲みに行った。


その席で、どんな男が好きか、嫌いかという話になった。


A子さんは言った。


「私、男の中でも、愚痴っぽい男って一番嫌い。許せない。男のくせにぐずぐず言うなっていうのよ。」


他の女性が言った。


「A子はよっぽど嫌いなのね、そういう人が。」


「うん。私、男だろうが、女だろうが、愚痴っぽい人間を見ると、虫唾が走るの。いるじゃない?そういう人。」


「うん、いるいる。」


「最近、他人が愚痴っぽいことを言ってるのを聞いただけで、私、すげームカつくの。聞いてるだけでいらいらしてきちゃって。」



最後に、A子さんは言った。


「ところでさあ、私、最近、仕事中に、何か、イライラすることが多くなったんだよねえ。どうしてかなあ。」




【問題】 何故、A子さんはイライラすることが多くなったのだろうか。



【原因】 まず、上の会話を整理してみると、A子さんの嫌いなものは以下のように推移している。


1.私は『Bの愚痴っぽいところ』が嫌い!
 ↓
2.私は『B』が嫌い!
 ↓
3.私は『Bみたいな愚痴っぽい男』が嫌い!
 ↓
4.私は『愚痴っぽい男』が嫌い!
 ↓
5.私は『愚痴っぽい人間』が嫌い!
 ↓
6.私は『他人が愚痴っぽいことを言ってるのを聞いただけ』でムカつく!




ところで、A子さんの会社の従業員数は500人である。


そこで、上の人数に対して調査したところ、以下のような結果が出た。


1.Bさんの愚痴っぽいところ (0.n名/500名)


2.Bさん (1名/500名)


3.Bさんみたいな愚痴っぽい男 (12名/500名)


4.愚痴っぽい男 (82名/500名)


5.愚痴っぽい人間 (158名/500名)


6.他人が愚痴っぽいことを言ってるのを聞く機会 (320名分/500名)



そこには以下のような包括関係がみられることが分かった。


Bさんの愚痴っぽいところ ⊆ Bさん ⊆ Bさんみたいな愚痴っぽい男 ⊆ 愚痴っぽい男 ⊆ 愚痴っぽい人間 ⊆ 他人が愚痴っぽいことを言ってるのを聞く機会



要するに、『Bさんみたいな愚痴っぽい男』は『Bさん』より多く、『愚痴っぽい人間』は『Bさんみたいな愚痴っぽい男』より多く、『他人が愚痴っぽいことを言ってるのを聞く機会』は、『愚痴っぽい人間』の数より多いのだから、それだけ、勤務中にイラつく機会が増えるわけだ。




僕は以下のように考える。


【命題】 不幸を一般化するとさらに不幸になる。



しかし、これは以下のようにも言えるわけだ。


【命題】 幸福を一般化するとさらに幸福になる。


もし、A子さんが、以下のように考えていたら、彼女はずっと幸福になれていたかもしれない。


1.私は『Bの親切なところ』が好き!
 ↓
2.私は『B』が好き!
 ↓
3.私は『Bみたいな親切な男』が好き!
 ↓
4.私は『親切な男』が好き!
 ↓
5.私は『親切な人間』が好き!
 ↓
6.私は『他人が親切にしているのを見るだけ』で幸せ!




【結論】 不幸は一般化しないほうがよく、幸福は一般化したほうがよい。






2007-11-25 22:27:53
【思索】現実逃避じゃないんです、世間逃避なんです!


「現実逃避」という言葉がありますね。


僕が思うに、世間において、現実逃避していると思われている人には、以下の3種類があるようです。


1.現実逃避している人


2.社会逃避している人


3.世間逃避している人


この3種類は、似て非なるものだと思います。



つまりこう言うことです。


まず、僕はこう定義する。



【定義】 現実:=この世(のすべて)


その上で言えば、


【命題】 社会や世間は現実の真部分集合である。


記号で書くと、こう。


社会 ⊂ 現実


世間 ⊂ 現実


要するに、社会や世間というのは、現実の一部でしかないということです。



さて、現実逃避している人とは、どんな人だろうか。


僕はこう定義する。


【定義】 現実逃避:=自殺


よって、


【命題】 現実逃避している人=自殺した人


何故なら、人間は生きたまま現実(この世)を逃避することは出来ないから。


言い換えるならば、


【命題】 生きている人間に現実逃避している人間はいない。



次に、社会逃避している人とは、どんな人だろうか。


僕はこう定義する。


【定義】 社会逃避している人:=ある社会においてその人の社会的義務を放棄している人


例えば、大金持ちの息子で、遊んで暮せる身分の人が、自分で働かず、自分の稼いだお金で税金も納めず、遊んで暮らしているのは社会逃避である。


ただ、彼はそうすることが許されており、遊び仲間らから「現実逃避(実は社会逃避)している」と思われていないだけの話だ。


(しかし、彼は、彼の親の金にものを言わせて娯楽などに浸っている限り、下の定義における世間逃避をしているとは言えない。)



最後に、世間逃避している人とは、どんな人だろうか。


僕はこう定義する。


【定義】 世間逃避している人:=世間における俗事に関心がない人


例えば、Aさんという人のことを考えてみよう。


Aさんは毎日まじめに働いている会社員である。


彼は、仕事をする上で必要な付き合いを一切避けないで働いている。


会社の同僚と一緒に働き、一生懸命頑張って、その給料から税金と年金を納めている。


NHKの受信料もきちんと払っている。


しかし、一方において、Aさんは、テレビドラマやバラエティ番組は一切見ないし、流行の芸能人のギャグや流行っている歌などまったく知らない。


また、カラオケやテレビゲームやゴルフの趣味もない。


また、友人たちと飲み会で集まって、その場にいない人の陰口を言ったり、根も葉もない噂を言って盛り上がったりすることもない。


僕は、上のような人こそ、まさに現実逃避をしないで、世間逃避している人であると思う。


そして、僕は、その人の生き方は何ら悪いことではないと思う。


例えば、お釈迦さんやイエスの生き方は、まさに「世間逃避」である。



しかし、世間においては、彼のような人も現実逃避していると誤解されがちである。


そうなる理由は、以下の2種類がある。


1.世間において、俗事が流行りすぎているから。


2.そう思う人の方が、俗世間の域を出ていないから。


1.について。


ある世間では、多くの人たちが、テレビタレントの話題で盛り上がったり、バラエティ番組の真似をしてみたり、カラオケにおいてみんなでたくさんのCMタイアップ曲を熱唱したり、みんなで会社帰りにゲームセンターに寄って行ったり、流行のドーナッツ屋だか、ラーメン屋だかに1時間以上並んでみたり、会社の同僚の噂話で盛り上がったり、その会話に参加しないと自分が噂の標的にされたり、会社に妙な派閥があったり、学生たちが学歴や偏差値を度を外れて争ったり、携帯電話がないと暮していけなかったり、小さい子がカードゲームに何千円も使ったり、いい年をした大人が欲しいものが出てくるまでガチャガチャだか、食玩だかを買い続けたり、わけの分からんパーティーに呼んだり呼ばれたり、イベントだ何だで広告代理店やテレビ局のいいように操られたりするということはあるかもしれない。

(結局のところ、「世間」とはそう言うところである。そして、もしある人が何らかの道を志すのならば、ぜひとも、この「世間」を出なければならない。)


世間において、人々の関心がそういう方向(すなわち、『悪夢の’80年代後半の再来』)に傾けば傾くほど、世間逃避している人は周囲の人たちに付いていけなくなるだろう。その結果として、彼は彼らとの付き合いが疎遠になるということがあるかもしれない。しかし、それはむしろ世間の人たちの問題であって、彼本人の問題ではない。

(一昔前までは、世間において、普通の人たちが、デカンショを学んだり、マルクスについて熱く語り合ったり、ドストエフスキーを読んで人生について考えたり、お寺に行ってお坊さんの話を聞いたり、座禅を組んだり、聖書を読んでみたり、博物館に行って古文書をメモしたりすることは普通に行われていたのである。)


2.について。


世間の域を出ていない人には、世間逃避している人と、社会逃避している人と、現実逃避している人の区別は付かないかもしれない。


なお、「世間の域を出ていない人」とはいわゆる「俗人」のことである。


【定義】 俗人:=世間の域を出ていない人



しかして、非俗人たる Brian Wilson のような御仁が以下のように歌わなければならなくなるのである。


"I Just Wasn't Made for These Times."





上のような考察から、以下の結論を導き出すことができると、僕は主張したいのです。



【主張】 僕のは、現実逃避じゃないんです、世間逃避なんです!


僕は「プロの引きこもり」じゃありません。(´;ω;`)






2007-11-26 19:55:42
【思索】言葉の定義について


言葉の定義は議論をする上で重要ですね。


これを確認しないまま議論すると、議論があらぬ方向へ行ってしまうのが普通です。


例えば、以下のような問題があったとしますね。


【問題】 神は存在するか、否か。


これについて議論すると、大体意見が分かれるでしょうね。


しかし、その議論の内容を聞く前に、まず確認しないといけないのは、「神」という言葉の定義ですね。


それをどう定義するかで、話が違ってくると思うのですよ。


例えば、以下のような2種類の定義を考えてみましょう。


【定義1】 神:=雲の上で暮す仙人のような格好をした巨人


【定義2】 神:=この世の生命すべて


上の2つの定義はそれぞれ「神」の定義として適切かどうか分かりませんが、少なくとも、前者のように定義すれば、この世に神はいないでしょうし、後者のように定義すれば、この世に神はいるでしょう。


大体、「Aを肯定する」と言っている人間と、「Aを否定する」と言っている人間が言うAが全然違うものを差しているというのはよくある話です。


あるいは、「Aを支持する」と言っている人間と、「Bを支持する」と言っている人間が言うAとBが実は同じものであったというのもよくある話です。


ところが、世間では、こういった言葉の定義を確認しないまま大抵の議論を始めてしまうと、議論が侃々諤々になってしまうことがよくあります。


他人と議論していて、話が噛み合ってないなと思うときは、大抵、議題を構成する言葉の定義が食い違っていることが多いようです。


そう言う場合には、ひとまず議論を打ち切って、言葉の定義を確認した方がよさそうです。


それどころか、上のような議題の場合、言葉の定義自体が、そのまま結論をなしていると言っても過言ではないでしょう。



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