あるところにAさんという人がいた。
Aさんは大変善意のあふれる人だったが、まったく無能力な人だった。
ある日、Aさんが住んでいる町の近くで大規模な災害が発生し、多くの避難民が発生した。
Aさんは善意からボランティアをしようと思い、現場にかけつけた。
Aさんは被災地の事務局に行って、尋ねた。
「私に手伝えることはありませんか?」
すると、事務局の人は答えた。
「運転免許は持っていますか?車で物資を運搬してもらいたいんですけど。」
「運転免許はありません。」
「では、パソコンは使えますか?情報を収集してもらいたいんですけど。」
「パソコンとか、機械類は苦手で。」
「では、英語とか話せますか?出来れば、被災地の外国人の通訳をしてもらいたいんですけど。」
「英語はまったく駄目です。他の外国語もまったく駄目です。」
「大工とか、左官とかの経験はありますか?建物の修理をしてもらいたいんですけど。」
「そういう仕事はしたことがありません。」
「では、体力に自信はありますか?物資の運搬の手伝いをしてもらいたいんですけど。」
「腕力は全然ありません。軽い荷物だったら、いいんですけど。」
「では、料理は得意ですか?被災者の食事を作るのを手伝って欲しいんですけど。」
「料理って、玉子焼きしか作ったことがなくて・・・。」
「では、犬か猫の世話はしたことがありますか?被災者のペットの面倒をみて欲しいんですけど。」
「犬も猫も飼ったことがありません。」
結局、Aさんは簡単な荷物運びや連絡係ぐらいしかすることが出来なかった。
さて、その数年後、また、ふたたび、別の場所で大規模な災害が発生した。
そこで、Aさんはふたたびボランティアをしようと思い、現場に駆けつけた。
しかし、ふたたび、同じ会話が繰り返されて、簡単な荷物運びや連絡係だけをして帰ってきた。
さて、昨日、僕は、人間の善意を以下のように定義した。
善意:=困っている人のためになろうとする気持ち
ここで、上の例を加えて考え直してみると、人間の善意というものは、その対象となる人を時間軸で分類することによって、以下の2種類に分類することができる。
現在への善意:=今、困っている人のためになろうとする気持ち
未来への善意:=未来において、困る人のためになろうとする気持ち
ここで、これらの善意からとるべき行動は、それぞれ、まったく違ったものになるだろう。
今、目の前に困っている人がいたら、我々は以下のように考える。
「今、目の前の人を助けるために、今の私に出来ることは何か。」
実際、我々はそのようにしか、行動することが出来ない。
逆に言えば、以下のようには考えられない。
「今、目の前の人を助けるために、今の私に出来ないことが、今すぐ出来るようになるにはどうすればよいのか。」
それに対して、これからしばらく先において、ある人たちが困ることことが想定される場合、我々はどう生きるべきだろうか。
例えば、数年後に近くの大都市で、大災害が発生するとした場合、それまでの我々には何ができるのだろうか。
もう一度、上のたとえ話を振り返ってみよう。
Aさんという人がいた。
Aさんは善意はあるが、無能力だった。
そのAさんが、ある日、災害地域に行って、被災者の役に立とうと思ったが、たいしたことは出来なかった。
このとき、Aさんは、以下のように反省すべきだったのではないか。
「今回の災害において、僕は無能だったから、たいした役に立てなかった。
ところで、同じような災害はこれからも起こりうるだろう。
だから、そのときには、ちゃんと役に立てるように、それまでに自分の能力を高めておこう。」
もし、Aさんが上のように考え、かつそれを実践していたら、2度目の災害において、最初の災害時と同じことしか出来ないで帰ってくるということはなかったのではないか。
そう考えてみると、以下のようなことが考えられないだろうか。
「Aさんには現在への善意はあったが、未来への善意がなかった。」
(余談だが、世の中には、その逆の人(能力的内弁慶)もいるかもしれない。
すなわち、「Bさんには未来への善意はあったが、現在への善意がなかった。」)
上のAさんのように、「善意はあるが、有能ではない人」≒「善意から有能であろうとしない人」の生き方には、どこか根本的な問題が潜んでいるような気が、僕はする。
つまり、こう思う。
「無能力は、未来への善意のなさの結果である。」
別の言い方をすれば、
「未来において困る人を助けられるような能力を身につけるように、日頃から自己研鑽しておくのは、人間にとって(不完全)義務である。」
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// 風邪以来、イマイチ体調が戻らない。そのうち書き直す。
// 「ある人の現在の無能力は、その人の過去において、未来への善意がなかったことの結果である。」