人間関係において、最近考えることが多いです。


例えば、最近、よく考えるのは、以下のような2者があった場合、本当に問題のあるのはどちらなのかということです。



許せない人と許さない人


嫌いな人と嫌う人


恨まれる人と恨む人



一般常識においては、正当な理由があれば、前者に問題があると考えるのが普通ですが、実際の日常生活においては、極端なケースを除けば、後者に問題があるケースも少なくないような気がします。


例えば、私がある友人Aさんと2人きりで話をしていたとします。

で、Aさんが私と直接面識のない知人Bさんについて、「あの人は嫌な人だ」と言ったとします。

その場合、私はAさんに同情して、「Bさんは嫌な人なんだね」と答えるかもしれません。

しかし、上のような状況において、Aさんが名前を出した Bさんという人が私にとっても知人であった場合、必ずしもそうとは思えないことが多いです。

AさんはいかにBさんが嫌な人であるかを強調して言うのですが、私から見るとBさんはそんなに嫌な人には思えなかったりします。


個人的な話ですが、私には、許せない人はいないし、嫌な人もいないし、恨んでいる人もいません。

私は、今日までの人生において、限られた状況の中で、他人と嫌な諍いをしたことはありますが、私はその相手の人を特に嫌ってもいないし、許せないということもありません。

つまり、根に持っている人は特にいません。

もし、かつて諍いをした人がわだかまりを持たず私に話しかけてくるなら、私は喜んで話をします。


しかし、逆に、私の方が話しかける場合はどうなるだろうかと考えます。

以前、ある人とやや言い争いをしたことがありました。

その後、たまたまその人と顔を合わせる機会があり、何気なく話しかけたら、彼はこちらをきっと睨んで横を向きました。

これでは付き合いようがないと思いました。


2人の人間が争うとき、場合によっては、お互いに相手の人を許せない人だと思うことがあるでしょう。

その場合、実はその両者はお互いに自分自身が許さない人になっていることにも気が付いた方がよいでしょう。

つまり、この場合、この2人はともに許せない人であって、許さない人でもあるわけです。


こういう場合、我々はどうしたらいいのでしょうか。

いちばん簡単に出来ることは、まずこちらが相手の人を許すことではないでしょうか。

そうすれば、相手の人は許せない人ではなくなり、こちらは許さない人ではなくなります。


しかし、その逆、つまり、こちらが許せない人ではなくなり、相手の人が許さない人でなくなることはとても難しいことです。

何故なら、それは相手の人によって出来ることであって、こちらによって出来ることではないからです。

そういう意味において、人間関係においては、ときとして、「許せない人」より「許さない人」の方が厄介だと思うのです。


「『喜んでなせ』と命ずるのは矛盾である」とカントは言いました。

こちらを恨んでいる人に対して「私を喜んで許せ」と命じることは出来ませんが、しかし、自分が恨んでいる人を喜んで許すのはそれほど難しいことではありません。



「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。


そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。


一日に七回あなたに対して罪を犯しても、


七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

(ルカによる福音書 17 3-4)



(別のブログからの再掲載)