大学時代、僕は地味な社会福祉系のサークルに入っていた。

当時はまだ携帯電話もインターネットもなく、連絡はいつもリレー式の電話網で行っていた。

ある日、定例の連絡が入ってきて、僕は、次の連絡先である一学年上の女性の先輩のうちに電話をかけた。

必要な連絡が終わり、これで電話を切ってもよかったのだが、その先輩はとても美しい人だったので、僕は上手く話を繋いでしばらく話しつづけていた。


すると、そのうち、先輩がこんな話を切り出してきた。

「ねえ、川野君。私の弟、覚えてる?」

「弟?」

「ほら、去年、学園祭のときに連れてきてて。紹介したじゃない。」

「ああ、先輩に似た、あの細くてかわいい子。」

「そう、そう。」

「その弟さんがどうしたんスか。」

「それがね。今日、弟が泣きながら、帰ってきてね。ずっと部屋に引きこもってるの。」

「どうしたんスか。」

「うーん、それがね。実は、私の弟にね、中学時代からの親友がいるよ。中学の頃、いっつも一緒に遊んでた子なんだけどさ。ときどき家にも泊まりに来てて。
でね。弟がね、今夜、久々にその子と会うんだって喜んでたのよ。今朝まで、ずっとね。」

「はあ、それで。」

「で、弟の話によると、二人は、渋谷で待ち合わせして、一緒に遊んでたんだって。」

「ええ。」

「で、二人はね、未成年の癖にお酒を飲んで、気持ちよくなってたみたい。
ところが、別れ際になってね。酔ってふざけてるところへ、その友達が突然抱きついてきたんだって。」

「はあ。」

「でね、びっくりしてたら、いきなりキスされたんだって。」

「あらあら。何でまた。」

「うーん、どうも、昔からその子、うちの弟のこと、好きだったみたいなのね。でも、弟は今日までそんなこと全然気が付かなくて。知らずにずっと無二の親友だと思って付き合ってたらしいの。なのに、今夜、いきなりキスされて。で、弟は、びっくりして、その友達を突き飛ばして帰ってきたらしくて。」

「そりゃ、驚いたでしょうね。
で、弟さんはどうしてるんです?」

「うん。それがね、ずっと隣の部屋に閉じこもって泣いてるの。相当ショックだったらしくて。もう会えないって。
こういうとき、私、どうしたらいいのかなあ。全然気持ち、わからなくて。」

「うーん。」

「ねえ、川野君も、男として、そういう経験ってある?」

「いや、さっぱり。ないっスね。そんな話、初めて聞きましたし。」

「そう。うーん、私、どうしたらいいんだろう。誰か教えてえ。」

電話で話をしていると、ときどき、電話の向こうでごそごそと先輩の身動きする物音が聞こえてきた。その音を聞いていると、僕には、先輩の部屋の壁をひとつ隔てた隣の部屋で泣いている弟君のことが思われた。彼は今何を考えているのだろうか。


「すいません。お力になれず。」

結局、僕は何の力にもなれないまま、適当に言葉を濁して、電話を切った。



その夜、僕は自分の布団の中で考えごとをしていた。

僕はその先輩の前では言わなかったけれども、その話が今ひとつ信じられなかった。何故なら、もし自分が同じ立場だったら、その親友を突き飛ばして、絶交して終わりだろうと思ったからだった。僕なら、とても、涙を流してその友達を惜しむとは思われなかった。


「そもそも泣いて惜しむほどの親友って、あるもんなんだろうか。」


悲しい話ではあるけれども、それが、この話を聞いた大学時代の、友達が一人もいない、引きこもりがちな僕の感想だった。



ところで、その僕には、その昔の高校時代、ある美しい女性に振られた経験があった。彼女は中学時代の同級生で、僕は中学時代彼女と友達のように接しながら、内心では彼女のことを愛していた。高校になって、僕は、自分と同じ町内に住む彼女に、いまさらながらの告白をした。その瞬間から、彼女は僕と口をきいてくれなくなってしまった。

僕は意識の上ではそう思わないようにしていたが、おそらく無意識のうちに彼女のことを恨んでいたと思う。


「どうして僕と口を利いてくれなくなってしまったのか。どうして、告白したとたんに態度が変わってしまったのか。たとえ、振られるにしても、一言でも口をきいてくれたら、僕はどんなに救われることだろうか。」


言いたいことが山ほどあった。


しかし、先輩から、その弟君の話を聞かされて、その夜、僕は初めて、愛される人の悲しみに気が付いた。愛される人も泣いているのだね。


もしかしたら、僕が好きだった女の子も、中学時代の友人だったはずの僕に一方的に告白されて、相当にショックを覚えたのかもしれない。僕は彼女に対して、とてもひどいことをしてしまったのかもしれない。あのときの僕と、先輩の弟君にキスをした親友と、一体、何が違うというのか。


その夜、僕は、ようやく、彼女に対するわだかまりが解けるような、それでいて、また別の贖罪を背負い込んでしまうような、不思議な感覚を覚えた。

(別のブログからの再掲載)