小学生の頃、人民帽が流行った。


YMOの影響か、鳥山明の漫画の影響か分からないけれども、当時、私もこの帽子が欲しくてたまらなかった。街の輸入雑貨店に行くと、それは数百円で売られていた。安いのだけど、子供の自分にはそれでも買うかどうかためらわれた。


ある日、ある雑貨店を通りかかったら、見たことのない美しい色の人民帽が売られていた。普通、人民帽といえば、オリーブ色か紺色が相場だったのに、その帽子はきれいなエメラルドグリーンをしていた。それは自分にはちょっと大きかったけれども、その店にはそのサイズのものしか置いてなかった。私は思い切ってその帽子を買った。


うちに帰って、その帽子をかぶって遊んでいると、母が見てびっくりして言った。


「あんた、それどうしたん?」


私はきょとんとした。


「大丈夫かね。そんなもんをかぶっとって。アカじゃあ言うて襲われたりせんかね。」


私はびっくりして返答に困ったが、意味もわからないまま、とっさに


「飾って置くだけだから大丈夫だよ。」


と答えた。



私は小さい頃、母が朝鮮人であることを知らなかった。この人民帽を買ってきたのは、母が朝鮮人であることを知って一二年ぐらいのことではなかったかと思う。


結局、私は、それ以降、その帽子をかぶることが出来なくなってしまった。



それから何年かして、あるときに母が伯父の話をし始めた。母は7人兄弟で、その伯父とは親子ほども歳が離れていた。


「うちが小さい頃にね。お兄ちゃんが朝鮮学校で子供らに勉強を教えとってね。

それが、ある晩に、知らん人らに襲われてね。半殺しにあったんよ。ぼこぼこに殴られて、口の中に唐辛子をたくさん詰め込まれとってね。口の中が血と唐辛子で真っ赤になっとったんよ。死ぬところじゃったんよ。

お婆ちゃんが泣きながら三日三晩看病しとってね。お母さんも隣でずっと見とったんよ。

お兄ちゃんは命を取り留めたんじゃけどね。それから人が変わったようになってしもうてね。先生も辞めてしもうんよ。」


その話は母からそのとき一度聞いただけなので、詳しいことは知らない。あるいは、こちらの記憶違いがあるかもしれない。


ただ、母は何か思い出話でも語るように、そのことをたんたんと話していた。

そのとき、私は、以前、私が人民帽をかぶっていたときに、母がひどく心配していた理由が分かるような気がした。


その後、私は、自分が朝鮮について興味を持つたびに、母に聞いてみたいことがたくさん出てきたが、百分の一も聞くことが出来なかった。すぐそばに母がいながら、私は何も聞けないで育った。


大学の頃、母が父と上京してくると、私は決まって社会学系の書籍を押入れに隠した。そういうものに興味を持っていることを知られてはいけなかった。


その後、私は母との付き合い方を変えた。無理に何かを聞き出そうとは思わなくなった。かわりに、母が韓国料理を作ってくれると、


「これ美味しいね、今度はこういうのを作って。」


と言って、甘えてみせた。

そのうち、母の韓国料理のレパートリーは増えた。



去年、私の両親はそろって還暦を迎えた。私は6月に帰省した際に、二人にプレゼントを買った。

母にはルイヴィトンのペパーミントグリーンのリードPMを、父にはモノグラムの長財布をプレゼントした。唐突な感じがしないでもなかったが、悪くはなかった。


そして、滞在中のある日、私は母と二人で宮島行きのフェリー乗り場にあるお好み焼き屋で食事した。母は私がプレゼントした手提げに自分が普段使っている財布や小銭入れを詰めて持ってきた。


その日、何故か私は腹をくくっていた。還暦祝いの勤めを果たして、気が大きくなっていたのかもしれない。私は母に今まで聞きにくかったことをいろいろと聞いてみた。


母はいろいろと聞かせてくれた。聞いたことのない話が多かった。

例えば、私は祖父の顔を知らない。私が生まれるよりもずっと前に亡くなったからだが、写真でもその顔を見たことがない。
それについて、母は言った。


「お父さんと結婚するときにね。お祖父さんの写真を全部処分したんよ。親戚にあげたんじゃけどね。あんたらに見せられんじゃろうと思うてね。
お祖父さんは偉い人でね。近所の人らに両班(ヤンバン)言われて、尊敬されとったんよ。こんな、板垣退助みたいなひげを生やしとってね。」


そういって、母は両手でダリみたいなひげを作ってみせた。


私は、母の子供みたいなしぐさに噴き出しそうになりながらも、両班といわれて近所の人たちから尊敬されていた、韓服を着た祖父の写真を処分した母が気の毒な気がした。今とは価値観が違っていたのだろう。


帰り際、母が言った。


「あんたに韓国語を教えてあげればよかったわ。」


私は韓国語が話せないけれども、母が長生きをしてくれたのでよかった。今日、話が出来てよかった。記憶が繋がってよかった。


次に話が出来るのはいつになるのだろう。それまで生きていてくれるだろうか。口には出さなかったけれども、心臓病の母の余命を心配した。


昨日、そんなことを思い出しながら、あの人民帽はどこに行ったのかと気がかりになった。脱衣場の籠を漁ってみると、猫の毛だらけになった人民帽が出てきた。色は記憶していたよりも普通の緑色に近かったが、やはりきれいな色だった。


私は猫の毛を取りながら、その人民帽を20年ぶりにかぶってみた。今の自分の頭の大きさにちょうどよかった。脱衣場の鏡の前で、ポーズを取ってみたりした。


そこには、いい歳をしたおっさんが突っ立っていた。
 

(別のブログからの再録)