ヒルティは「眠られぬ夜のために」の中で以下のように言っていますね。


「悪人がもはや深い後悔を感じえないようになったら、それは彼に下された最も重い罰を意味する。自己の悪を知りながら後悔を覚えないということは、すでにこの世ながらの地獄である。そういう場合、ついに往々狂気にいたることも、きわめて理解できる事柄である。」


悪人が「自己の悪を知りながら後悔を覚えない」のは、そこにある種の「合理化」が働いているのだろうと思うのです。



人間は生きていると、しばしば合理化することがありますね。


人間は、「すべきではないこと」でありながら「したいこと」があったりすると、適当な理由をつけて合理化して、それを実行したりすることがあります。


例えば、新聞などを読んでいると、よく親が子供を躾(しつけ)と称して虐待死させてたりしますね。こういったニュースを見ると、私は原因と結果が入れ替わってしまっているように感じます。


つまり


「躾のために虐待をしていたら子供が死んでしまった」

のではなく


「子供を虐待していたら死んでしまったので、警察に対して『躾のためだった』と供述している」
ように思えてならないのです。

これも合理化の一種なのかもしれません。


虐待死まで行かなくても、電車なんかに乗っていて、自分の子供を相手に本気でヒステリーを上げている親を見かけることがあります。


私にはこのヒステリーがどうも躾と何の関係もないように思えてなりません。


どうも躾が大義名分になってしまっているような気がします。

それにしても、四六時中親のヒステリーを聞かされて育つ子供はたまったもんではないでしょう。



また、以前にも何度か書きましたが、匿名サイトなどで歴史認識や社会問題に関して議論をしていると、他国や他民族に対して感情的になって暴言を吐く人たちがいますね。

私はこういった人たちの行動規範にも、ある種の「合理化」があるような気がしてなりません。


「愛国主義」や「民族主義」は「排外主義」になってしまうことがあります。


これにもときおり一種の合理化が起こることがあるように思うのです。


世の中には


「愛国主義」や「民族主義」のために「排外主義」を採用する


のではなく、


「排外主義」を正当化するために「愛国主義」や「民族主義」を持ち出している


人も中にはいるように思うのです。


これはどこの国、人種、民族においても起こり得ることでしょう。



話は戻りますが、最初のヒルティの文章は以下のように続きます。


「これに反して、悪人が救いの欲求を痛感するならば、そうした理由のために、しばしばありふれた意味の善人よりも、かえって救いに近づくこともある。」


これは日本でいうところの悪人正機説だと思いますが、こういった考えは洋の東西を問わず見られる考えなのかもしれません。


合理化によって人を傷つけて平然としている人が自分を見直すためには、まずその人自身が自分自身にかけてしまった自己暗示を解く必要があるだろうと思います。


そのためには、まず自業自得によって、本人が世間から相手にされなくなる必要があるかもしれません。


そこから、何故、自分は世間の人たちに相手にされないのだろうかと考え始めて、初めて考え直すきっかけが得られるのかもしれません。


しかし、そこからがなかなか大変なことかもしれません。


(別のブログからの再録)