大天使ミカエルとは誰のこと?
(Who is Michael the Archangel? (Amazing Facts)より抜粋)ミカエルの謎聖書に登場するミカエルは、「大天使ミカエル」「大いなる君ミカエル」とも呼ばれ、その正体についてキリスト教界ではしばしば疑問が呈されます。ある人々は、「ミカエルは天の天使の中で最高位の守護のケルブの一人である、あるいはガブリエルのような特別な使者である、したがって、彼は被造物である」と主張します。また、聖書注解者マシュー・ヘンリーのように、「ミカエルは単にイエスの数ある名前のうちの一つである」と主張する人もいます。この謎めいた存在が誰なのか知ることはできるのでしょうか。この謎めいた問いを解く鍵は、明らかに聖書の中にあります。「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」イザヤ書28章10節。聖書のコンコルダンスで調べてみると、聖書の中でミカエルという名前に言及している箇所は15箇所あることがわかります。そのうち10箇所は、単にミカエルという名前の人です。実際、ギリシャ語やヘブライ語の辞書である辞書の「ミカエル」の項目には、「大天使と9人のイスラエル人の名前」と書かれています。私たちがこの重要な研究で求めている答えは、残りの5箇所で言及されている大天使であり君であるミカエルがどなたであるかと言うことです。このうち、最初の3箇所は旧約聖書の預言者ダニエルの書物に登場するミカエルです。最後の2箇所は、新約聖書のユダへの手紙とヨハネの黙示録に書かれています。一見すると、旧約聖書ではミカエルは大いなる君として描かれ、新約聖書では大天使として描かれているように見えます。しかし、同じような言葉や表現が使われている他の関連聖句を見ることで、興味深いパターンが浮かび上がってくるのがわかります。これより先に進む前に、次の考えをよく読み、消化してください。「天使」という言葉は「使い」「メッセンジャー」を意味するため、聖書では非常に自由で広範に使われています。聖書の中で、人が天使と呼ばれることもあります。1サムエル29:9ガラテヤ4:14。また、天使が人と呼ばれることもあります創世記32:24。また、創世記32:24には、神ご自身を天使と呼んでいるところもあります(後述)!もちろん、天使も天使と呼ばれます。一般的に、人が天使を思い浮かべる時、天使、セラフィム、ケルビムとして知られる、翼を持つ、奉仕する霊を思い浮かべるでしょう。しかし、イエスは神の永遠の御子であり、常に神そのものであられます。この聖書研究の中でイエスを天使と比較することは、単に最高の救いの使者であるという古典的な意味にすぎず、イエスの永遠の神性を減じることを意図するものでは決してありません。鍵は名前にあるまず、いくつかの言葉や名前の意味を考えてみましょう。ギリシャ語の新約聖書では、「天使」は「使者(メッセンジャー)」、大天使の「大」は「主、本質、最大、最高」という意味です。つまり、「大天使」は単に「最も重要な使者」という意味です。旧約聖書に登場するヘブライ語の「ミカエル」という名前は、「神に似た者」という意味ですが、時には「誰が神としての存在なのか?」という質問の形になることもあります。ですから、大天使ミカエルの称号は、「神である最も重要な使者」と訳すことができます。この名称が質問なのか、発言なのか、挑戦なのかは、さらに研究すれば明らかになります。聖書の中には、自分が神のような存在であることを公言した天使がいました。イザヤ14:14で「いと高き者のようになろう」と主張して、悪魔、サタンとなったルシファーは、天の神殿から堕ちたケルビムでした。黙示録12章7節では、サタンは「ミカエルとその天使たち」と敵対し、天から追い出されます。主の御使い「主の使(angel of the Lord)」という言葉は、聖書の中で68回出てきます。ダニエル、ザカリヤ、マリアに現れたガブリエルのことを指すこともあります。しかし、ガブリエルは単に「主の使(an angel of the Lord)」(ルカ1:11)であって、「その主の使(the angel of the Lord)とは呼ばれていません。また、大天使と呼ばれることもありません。(ついでに言うと、人気のある天使ラファエルは聖書のどこにも登場しません)。ガブリエルはおそらく、神の玉座の脇にいる2人の覆いかぶさるケルブのうちの一人だと思われます。彼は、ザカリヤに「私は神の前に立つガブリエルである」(ルカ1:19)と言いました。ルシファーはかつて、堕落する前にもう片方の場所を占めていました(エゼキエル28:14)。もし天使の最高位が、神の御座の横にいる守護ケルブだとしたら、「大天使」とはいったい誰なのでしょうか?また、人間の救済に重要な役割を果たす「主の使」と呼ばれる力強い人物は誰なのでしょうか。父なる神は、イエスによって万物を創造されました(ヘブル1:2、エペソ3:9)。キリストは、地上に来られて人間となられ、人間を救うためにサタンと戦われました。そうであるなら、同様に天国でサタンの悪しき影響から天使たちを守るために、何らかの形で天使たちと同じようになられた可能性があると考えるのはそれほど不自然なことではありません。実際、聖書には、キリストが地上に人間として来られる前に「主の使」と呼ばれる謎の存在が何度か登場します。しかし、そのたびに、その正体を知る手がかりがあるのです。ここでは、主の使が登場する順番に、その内容を簡単に確認してみましょう。ハガルアブラハムの侍女ハガルがイシュマエルを産んだ後、彼女と不妊のサラは、もはや平和のうちに共存することができなくなりました。サラがこの高慢な召使いに厳しく対処したため、ハガルは砂漠に逃げ込みました。そして、「主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い」ました(創世記16:7)。天使はハガルに、戻ってサラに服従するよう告げ、彼女の息子イシュマエルが偉大な国の父になることを約束しました。「使」が姿を消したとき、「ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。」(13節)。ハガルは、自分に話しかけてきた「主の使」が神であると認識していたのです。」アブラハム神はアブラハムに、息子イサクをモリヤ山で犠牲に捧げるよう告げられました。しかし、約束の息子に短剣を突き刺そうとしたとき、主の使がそれを止めました。主の使は天から彼を呼んで言いました、「アブラハム、アブラハム」彼は言った、「私はここにおります」。「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22:11,12)。アブラハムは神に自分の息子を捧げたのであって、単なる天使に捧げたのではないことは明らかです。「主の使は再び天からアブラハムを呼んで、言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し…』」(創世記22:15-18)。ペテロは、使徒行伝3:25でアブラハムのこの経験を語り、祖先と契約を結んだこの「主の使」を神と呼んでいます。ヤコブヤコブは、怒れる兄エサウから逃げる途中、アブラハムとの契約を神が確認される夢を見ました。ヤコブは、神が自分とともにいて、カナンの故郷に無事に連れ戻してくださるという保証を得た後、すべての利益の一割を神に返すことを誓いました。そして、そのとき枕として使っていた石を立て、油を注いで厳粛な誓いを立てました。そして、その場所をベトエル(神の家)と名付けました。20年後、ヤコブは無一文の逃亡者ではなく、裕福な男になって故郷に帰ろうとしていました。神は、誰がヤコブに成功をもたらしたのかを思い起こさせようとされました。ヤコブはその話を次のように語っています。「その時、神の使が夢の中でわたしに言った、『ヤコブよ』。わたしは答えた、『ここにおります』。」13節では、この「神の使」が名乗ります。「わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。そして、ヤコブが天上の存在と格闘したとき(創世記32:22-32)、新しい名前を与えられ、祝福されました。「ヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、『わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている』」(30節)。新約聖書でも、イエスによってご自分の民が祝福され、新しい名前が与えられています(マタイ5:3-12、ヨハネの黙示録2:17)。このように、主の使がイエスご自身であることが、ますます明らかになってきます。ヤコブは死の床でヨセフの二人の息子、エフライムとマナセを祝福するとき、「み使」と「神」という言葉を使い分けました。「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。」(創世記48:15、16)。聖書は、神以外に贖い主や救い主がいないことを明確に示しています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。…あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、主はこう言われる」(イザヤ43:11、14)。ヤコブを贖った天使は、私たちの贖い主であるイエスの別名であることが、さらにわかります。モーセモーセは、燃え尽きることのない燃える柴を見ました。「主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた」(出エジプト記3:2)。4節では、この使について「神はしばの中から彼を呼んで…」と言っています。そして6節では、この使が再び名乗ります。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。主の使は、ご自分を神と名乗られました。ステファノが石打ちにされる前の最後の説教で、出エジプト記のこの記述に同意しています。「四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』…。」(使徒7:30-32)イスラエルイスラエルの子供たちは、神によって荒野に導かれました。「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」(出エジプト記13:21)。モーセは後に、彼らをこのように導いたこの存在について説明しています。「このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち…。」(出エジプト記14:19)。ここでも「神の使」は神であるとされています。バラムバラムとその喋るロバの話でも、主の使が登場します。主の使は、ロバを無慈悲な主人から救い、神の民を呪うために旅をしていた貪欲な預言者を殺しかけました(民数記22:21-35)。そして、「主の使はバラムに言った、『この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない』。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った」(35節)。次の章では、誰が預言者の口に言葉を吹き込んだのかが明らかにされます。「神がバラムに会われたので、バラムは神に言った、『わたしは七つの祭壇を設け、祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました』。主はバラムの口に言葉を授けて言われた、『バラクのもとに帰ってこう言いなさい』」(民数23:4,5)。ここでも、「主の使」は神ご自身であることがわかります。士師記さて、「士師記」に話を移しましょう。「主の使がギルガルからボキムに上って言った、『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。』』」この時点で、私たちはあるパターンに気づくはずです。イスラエル人をエジプトから連れ出し、決して破らないという契約をイスラエルと結んだのは、主の使でしょうか、あるいは人間になられる前の神の御子ご自身でしょうか。そうです!両者は同じお方なのです。ギデオンギデオンは、士師記の中で、主の使と出会います。使はギデオンに、主が彼とともにおられることを告げます。しかし、ギデオンは、ミデアン人によるイスラエルへの圧制を指摘し、使に意義を唱えました。その後、聖書にはこう書かれています。「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」(士師記6:14)。この物語の残りの部分では、ギデオンに話しかけた人物は、主、主の使、神の使と言い換えられています。マノアサムソンの母、マノアの妻は不妊でした。「主の使がその女に現れて言った」(士師記13:3)。この使は、彼女が息子を生み、その息子は背教者であるイスラエル人を異教徒の圧制から解放するだろうと告げました。彼女はすぐにマノアを呼び、マノアは「神の人」が再び現れるように祈りました。二度目に使が来たとき、マノアは使に名前を聞きました。欽定訳では、使はマノアにその名を「秘密」と告げた、とあり、余白には同じ言葉を「不思議な(Wonderful)」と訳しています。これを読むと、イエスが「霊妙なる議士(Wonderful Counselor)、大能の神、とこしえの父、平和の君」(イザヤ書9章6節)と呼ばれるであろう、というイザヤの良く知られた預言がすぐに思い浮かびます。マノアに現れた主の使の「Wonderful」という名前は、この「使」と、「Wonderful」と呼ばれる来たるべきメシアを結びつけています。もう一度、このWonderfulという使を見た後、マノアは自分たちが神を見たと宣言しました。そして、マノアは妻に「わたしたちは神を見たから、きっと死ぬであろう」(士師記13:22)と言いました。誰も父を見たことがないこのように、私たちは多くの手がかりを得ました。「主の使」が神ご自身であることが頻繁に確認されていることをはっきりと理解できます。しかし、聖書は、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:18)と述べています。ヨハネによる福音書6章46節には、「神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである」とあります。つまり、誰も父なる神を見たことがないことは明らかなのです。ですから、旧約聖書で「主の使」として目撃された神はすべて、目撃した人々が焼き尽くされることなく、その存在に耐えることができるようにそのご栄光をベールに包まれた、子なる神イエスに違いありません。契約の天使最も有名なメシア預言の一つは、マラキ書3章1節にあります。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」ここマラキ書で語られる契約の使者とは、明らかにイエス・キリストの降臨を指しています。使者(メッセンジャー)と訳された言葉(マルアク)は、旧約聖書で主の使(エンジェル)と訳されている箇所と全く同じ言葉です。ですから、次のようにも訳せるでしょう。「見よ、わたしは天使(エンジェル)を遣わし、彼はわたしの前に道を整える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」これ以上明確なことがあるでしょうか?告発者を叱責する旧約聖書には、もう一つ、主の使が登場する重要な箇所があります。預言者ゼカリヤは、大祭司ヨシュアが主の使の前に立っている幻を見せられました。その右手にはサタンが立っていて、彼に抵抗しています。ここには、罪深い人間をめぐり、敵対して争う二人が描かれています。ヨシュアの汚れた衣は彼の罪を象徴しています(ゼカリヤ3:3)。この物語では、「主の使」(1節)から「主」(2節)へと名前がすぐに変わり、両者が同一であることを再び示しています。そして、主は興味深い発言をされます。「主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ(The Lord rebuke you.)』」(ゼカリヤ3:2)。この言葉が聖書の中で出てくるのは、ここと、ユダへの手紙9節で大天使ミカエルが語った場面のみです。ユダの短い手紙の中で、ゼカリヤ書のヨシュアと天使と同じような場面が見られます。「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、『主がおまえを戒めて下さるように(The Lord rebuke you)』と言っただけであった」(ユダ1:9)。この状況は驚くほど似通っています。キリストとサタンは、神に仕えた偉大な人間の指導者2人(ヨシュアの場合は生きている者、モーセの場合は死んだ者)の運命について争っているのです。この論争は、イエスが「主はあなたを責めるのだ」と言われたとき、突然終了します。この箇所は、もう一つの有効な問題を提起しています。ある人々は、ユダ1:9のこの節でミカエルが悪魔を叱責していることに困惑します。彼らは不思議に思います。もしミカエルが本当にイエスの別名なら、なぜサタンを叱責されるときに、三人称の主の名を口にされるのでしょうか。なぜ、荒野で誘惑されたときのように、イエスご自身が「サタンよ、退け」(マタイ4:10)と言われなかったのでしょうか。聖書とイエスの御言葉を調べると、ルカ18:8で、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたように、イエスがご自身のことを三人称で話されるのはごく普通のことだったことがすぐにわかります。さらに、もしまだ疑問が残るのであれば、ゼカリヤ書3章2節にも明確な聖句があります。主はユダへの手紙の中のミカエルと同じことをされています。主は悪魔を叱責するとき、ご自身の名前を呼び起こされます。「主はサタンに言った、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ』」おそらく、これらの聖句は、子なる神がサタンを叱責する際に、父の御名に訴えた例なのでしょう。大いなる君ミカエルミカエルは、聖書の他のどの書物よりも、ダニエル書に多く登場します。(ダニエル書10:13; 10:21; 12:1参照)3つの言及のすべてで、彼は「君(Prince)」、「あなたがたの君(your prince)」と「大いなる君(the great prince)」と呼ばれています。イザヤのメシアに関する預言(イザヤ9:6)には、メシアに与えられた重要な名前の1つが「平和の君(Prince of Peace)」であることが示されています。ダニエル書8章25節にも、「君の君たる者(Prince of princes)」が登場する箇所があります。ここでも、人類を戦場として、一方はキリスト、他方は悪魔という宇宙規模の対立が繰り広げられています。「君の君たる者」とは、実は11節で「衆群の主」と訳されているのと同じ言葉です。これは、「主の主」(詩篇136:3)、「神の神」(申命記10:17)、「王の王」(黙示録19:16)に似ています。これらはすべて神の称号です。さらに、「メシアなるひとりの君(Messiah the Prince)」(ダニエル9:25)とも呼ばれています。天使たちが「大いなる君」と呼ぶこの存在は誰なのでしょうか。聖書に教えてもらうことにしましょう。イザヤ書9章6節「その名は...平和の君と呼ばれるであろう。」使徒3章14、15節「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君(Prince of life)を殺してしまった。」使徒5章30, 31節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手(Prince)とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」ヨハネの黙示録1章5節「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者(Prince)であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」これらの節は、ミカエルが「君(Prince)」と呼ばれているダニエル書の3つの節と明らかに呼応しています。ミカエルは多くの者の中の一人に過ぎないのでしょうか?ダニエル書10章13節は、ミカエルに関する最も難しい箇所でしょう。「ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長(Chief Princes)のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けた…。」一見すると、ミカエルは天使の長の「ひとり」に過ぎないように見えます。これは、欽定訳聖書の残念な訳語です。この「ひとり」という言葉はヘブライ語の「echad」と言う言葉の訳で、大統領の妻が「First Lady」と呼ばれるように、「first」ともよく訳される言葉です(創世記1:5; 8:13参照)。こう考えると、この節の全体の意味が、ミカエルが第一の、最も重要な、あるいは最高位の、君の長であるという意味に変わります。これもまた、イエスを指しています。天使に抵抗したペルシャ王国の王子とは、間違いなく、バビロンの王、ツロの王、ローマ帝国のような地上の君主の影で頻繁に働いている悪魔のことを示しています(イザヤ14:4、エゼキエル28:2、ヨハネの黙示録12:4)。イエスがサタンを「この世の君(Prince)」(ヨハネ12:31)と呼んでいることを思い出してください。ダニエル書10章21節には、「しかしわたしは、まず真理の書にしるされている事を、あなたに告げよう。わたしを助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません。」とあります。ここで、天使がミカエルを「あなたがたの君」と呼んでいることに注目してください。ダニエルの君(Prince)は誰だったのでしょうか。前の章に、その答えが書かれています。ダニエル書9章25節では、ダニエルのメシアが「君」と呼ばれていますが、これもミカエルが誰であるかを明確に示しています。つまり、ガブリエルは、大天使ミカエルが聖書の真理をすべて知っているイエスだと言っているのです。ミカエルは立ち上がるダニエル書のミカエルに関する最後の記述は、第12章にあります。「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。」ここで注目すべきは、ミカエルが単なる「大いなる君(a great prince)」ではなく、「(その)大いなる君(the great prince)」と呼ばれていることです。イエスよりも大いなる君が他にいるのでしょうか。また、ミカエルは「あなたの民を守っている大いなる君(あなたの民のために立っている君)」であるとも言われています。つまり、執り成し、弁護を行い、さらには身代わりとして立っておられるということです。これは、イエス以外に誰がいるのでしょうか。この節について、マシュー・ヘンリーはこう述べています。「ミカエルは『神に似た者』を意味し、その名は『大いなる君』という称号とともに、神聖な救い主を指し示す。キリストは、私たちの民の子供たちのために、彼らの代わりに犠牲として立ち、彼らのために呪いを負い、彼らから呪いを背負うために立たれた。イエスは彼らのために立たれ、恵みの座で彼らのために嘆願しておられるのである。」イエスは、常に私たちの代わりに、私たちを守るために立ってくださる方であることは明らかです。ミカエルが立っているのも、主が来られる準備をしていることを表しています。ミカエルは非常に高貴で力強い存在であり、彼が立たれることによって大きな苦難の時が始まることに注目してください。その結果、イエスの再臨と復活が起こるのです(ダニエル12:2)。ミカエルの声「大天使」という言葉を切り取って調べると、もう一つ興味深い一致点が見えてきます。聖書の中で「大天使(archangel)」という言葉が使われているのは、ここの他では、テサロニケ人への手紙第一4章16節だけです。そして、その文脈に注目してください。「すなわち、主ご自身が天使のかしら(archangel)の声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり…。」キリストにある死者をよみがえらせるのは、大天使の声であり、それを叫ぶのは主ご自身です。これは、両者が一体であることを示しています。イエスは、死者をよみがえらせるために、大天使、つまり「最も重要な使者」の声で叫ばれるのです。当然ながら、天使には死者を復活させる力はありません。命を与える神だけが、命を回復する力を持っておられるのです。「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。…墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、…善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり…。」(ヨハネ5:26、28、29)。ユダへの手紙には、モーセの肉体をめぐって大天使が悪魔と争っている様子が描かれています。モーセは復活して天に召され、そこから変貌の山に現れてキリストを励ましました(マルコ9章)。テサロニケ人への手紙で、使徒パウロは、復活は大天使の声に応答して起こると述べています。この2つの節は、どちらも大天使が復活を行われる様子を描写しています。司令官を礼拝する黙示録では、ミカエルが天の軍勢を率いて、反逆者ルシファーとの戦いに臨んだことが描かれています。「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦した」(ヨハネの黙示録12:7)。ここで「龍」とは、悪の指導者であるサタンの象徴的な名前です(9節)。したがって、ミカエルは善の体現者であり指導者であるイエスの別の象徴的な名前であると考えても差し支えないでしょう。しかし、もっと多くの証拠があります。イスラエルが約束の地に渡った後、最初の戦いに備えていたとき、ヨシュアは珍しい戦士との出会いを経験しました。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、『あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか』。彼は言った、『いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ』。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、『わが主は何をしもべに告げようとされるのですか』。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である』。ヨシュアはそのようにした。」(ヨシュア5:13-15)。ヨシュアがこの存在を礼拝しただけでなく、その軍勢の長はヨシュアの礼拝を受けたのです。もし彼が単なる天使であったなら、天使が自分を拝もうとしたヨハネを叱責したように、ヨシュアを叱責したのではないでしょうか(黙示録19:10、22:8、9参照)。主の使が礼拝を受け入れる場面があれば、その使は明らかに神の子です。しかし、通常の被造物である天使を礼拝しようとする場面では、彼らはそれを拒否しています。イエスでさえ、荒野でサタンに「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」」(ルカ4:8)と念を押されています。実際、被造物であるすべての天使は、イエスの最初の降臨のときのように、イエスを礼拝するように命じられています。「さらにまた、神は、その長子を世界に導tき入れるに当って、『神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである』と言われた。」(ヘブル1:6)。悪魔は、いつか自分さえもイエスを王と認めて礼拝せざるを得なくなることを知っているので、激怒しているのです。「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(フィリピ2:10、11)パウロでさえ、神の天使とイエスの間に印象的なつながりを持たせていることに注目してください。「(あなたがたは)わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」(ガラテヤ4:14)。「万軍の主(Lord of hosts)」という言葉は聖書に245回出てきますが、これは「神の御使いの軍勢の司令官」のことを指しています。つまり、ヨシュアが見た「主の軍勢の将」は、天使ではなく、イエスご自身だったのです。だから、ヨシュアに靴を脱ぐように要求されたのです。それは、燃える柴が現れた場所がモーセにとって神聖だったのが、その燃える柴にイエスがおられたからであるのと同様です、ですから、主の軍勢の長であるミカエルは、イエスの別の称号なのです。神として存在される方フィリポが弟子たちに父を見せるようにイエスに頼んだとき、キリストはこうお答えになりました。「こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:9)。ある人は、神の御子は人間の問題に自ら介入されるまでに4,000年も待たれたのだと考えています。しかし、そうではありません!確かに受肉は人間の堕落から4,000年後に行われましたが、御子である神は、それまでもご自分の民の歴史と問題に自ら関わってこられたのです。だからこそ、イエスは言われました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(ヨハネ8:56)。アブラハムがロトのために仲裁に入ったとき、イエスはアブラハムに直接現れました(創世記18:26)。神の永遠の御子であるイエスが、神の子供たちを見守り、養い、守るために、常に積極的な活動をされているとは、なんと素晴らしい真理でしょうか。イエスは、アブラハムやモーセと顔を合わせて話され、ヤコブと格闘されました。そして、イスラエルの民を荒野に導き、食料と水を与え、敵に勝利させましまた。大天使ミカエルとは、「神である偉大な使者」という意味であることを忘れないでください。この滅びゆく世界に、希望という最大のメッセージである福音をもたらされたのは、「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であるイエスだったのです。結論結論として、私たちは、この壮大で謎めいた存在が、時にはミカエルと呼ばれ、時には主の使、時には主の軍勢の司令官として、神性をベールに包み、へりくだった御使いの姿で現れるのを目の当たりにします。しかし、この同じ謎めいた存在は、神のみに属する力、権威、属性を持っています。悪魔を天から追い出し、死者を復活させ、聖徒のために執り成し、裁き、そして立ち上がり、大きな悩みの時を起こします。聖徒を贖い、その礼拝を受けられます。そして、私たちに新しい名前を与えるのです。ミカエルが誰なのか分かったかもしれませんが、知っているだけなら悪魔も同じです。知っていることで救われるわけではありません。問題となるのは、神の子イエスを自分の主であり、救い主として知っているだろうか、ということなのです。