「王様、また人口が減っております…」
「なんじゃと!?」
王様は、怒りのあまり立ち上がりました。
「わしの努力はいつまで経っても報われん!もう兵隊どもを雇う財源もままならなくなってきておるのだ!どうしても国は豊かにならない、それどころか衰えていく一方だ!おまけに、遅くになってようやく生まれたわしの跡継ぎといったらこの、勉学の知識を何にも生かそうとしない、16にして女と通じたこともない、情けない…」
そう言って王様は、一人息子のフィリップをにらみつけました。王子は、少しうつむきました。
「お前はわしの話が分かっておるのか!来年には結婚を控えているというのに、何事につけても気を引きしめている気配が微塵も見られない!自らの将来と、国の将来を、まともに考えようともしておらぬのか?こんな災い尽くしでは、わしの命も何年続くか分からんわい!」
王様と女王様、フィリップの他に王家の血を引く者はなく、フィリップは17歳の誕生日に将軍の娘、ロクサンヌと結婚することになっていました。
会議は、いつもと同じように良い結論を見ないまま終わりました。フィリップは自分の部屋に戻り、バルコニーに出て遠くを眺めていました。下から、将軍とその娘が話している声が聞こえてきます。
「まったく、勉学もままならなくて女との通じ方も知らない、あんなに情けない王子様と結婚なんて、嫌になってしまいますわ。おまけに見た目もかなり醜い…」
「ロクサンヌ、口を慎みなさい!…しかし、困った王子様であることは確かだ」
フィリップは、彼らの方には見向きもせず、ぼんやりと遠くを眺めていました。
お城のそばの草むらに、貧乏画家の少女が寝そべっていました。
彼女は幼いときに両親を亡くし、絵描きや日雇い労働をしながら、国境を越えて放浪生活をしています。売春には手を出さず、ジャックと名乗って少年として生きていました。
ジャックは起き上がって辺りを見回しました。そして、お城のバルコニーにフィリップを見つけました。
ジャックは、この国の王族を見るのははじめてです。お城の庭の柵のところまで歩いていき、柵越しにフィリップを眺めました。
国民たちのうわさによれば、フィリップ王子の顔立ちは決して美しいものではありませんでした。しかしジャックは、物憂げなフィリップの瞳の中に、不思議な美しさを見出していました。
「きれいな王子だな…」
そうつぶやくや否や、ジャックは持ち物からスケッチと鉛筆を取り出しました。
ジャックはその場に座り込み、夢中で何か描き始めました。書き終わると、紙をささっと飛行機のように折りました。
風のタイミングを見計らって、ジャックは紙飛行機をフィリップのもとに向けて飛ばしました。紙飛行機はくねくねと舞いながらも、見事に王子様の足元に着地しました。それを見届けると、ジャックはその場をそそくさと去りました。
フィリップは紙飛行機に気づくと、それを拾い上げました。紙の端に「フィリップ王子へ」と書いてありました。開いてみると、そこにはフィリップのスケッチがあり、右下に「ジャック」と描いてありました。フィリップは少し目を見開くと、すぐに辺りを見回しました。でも、夕方近いお城の周りには、人影一つ見えません。フィリップは再び視線を落とし、その絵をしばらく眺めていました。
***
あれから何日かして、私はまたお城のところまで来てみた。
それにしても、なんだか不思議な雰囲気の王子だった。遠くから見ただけだったけど。
あの日、王子がいたバルコニーを見上げてみたけど、王子は見当たらない。
私は庭の柵越しに、改めてお城全体を眺めてみた。こっちから見ると裏側なわけだけど、派手すぎずなかなかきれいなお城だ。
私はいくつかの国を旅してきたけど、こんな間近でお城を見たことはない。
眺めていたら、なんだかお城を描いてみたくなってきた。私はこの前みたいにしゃがみこんで、スケッチを開いた。
そういえば、こんなに大きなものを描くのは、はじめてかもしれない。大きなものの全体を見ながら描くのは、なかなか難しいものだ。まず、ざっくりした形を描いて、少しずつデッサンをきれいに入れていく。私は改めてお城の大きさに圧倒されながら、夢中で鉛筆を動かし続けた。
どのくらい時がたっただろうか。不意に、人の気配を感じた。思わず見上げると、柵の向こうに王子が立っていた。
「あ…どうも…あ、別に、怪しいものじゃないぜ」
私はそう言って手を振った。
「……あなたがジャックですか?」
「へ…?あ!」
なんで名前を知ってるのかと思ったら、そういえば王子のスケッチの右下に名前を書いていた。
「あ…まあ、そうだな」
王子はそこに立ったまま、私を見つめていた。
うわあ、こんな近くで王族の人を見るなんて…。私も王子の顔を見つめた。王家らしい凛々しい顔では決してないけれど、瞳がすごくきれいだ。
「あの絵、なかなかお上手ですね」
「あ、いやあ、どうも」
私は思わず頭をかいた。
「今度は何を書いているのですか?」
「え、お城」
ちょっとまだ見せる自信がなくて、私は膝にかかえてるスケッチを若干隠した。
「城ですか…そう簡単に描けるものではありませんよ」
「む、難しいからチャレンジしてんだよ」
「ついでに言うと、僕の姿だって簡単に描けるものではありませんけれど」
「何だっ、ずいぶん高飛車な口をきく王子だなぁ」
「あなたこそ、王子に口をきいているとは思えませんね」
王子はそう言って、微笑を浮かべた。
「私…俺に、そんなきれいな言葉を教えてくれる人なんていなかったのさ。言葉の荒いやつらのもとで日雇いの仕事にありつく生活さ」
私はあぐらをかいた。
「それか、こうして絵を描いて売るか…」
そう言って私はスケッチを見下ろした。
王子はしゃがんで、柵越しにお城のスケッチをのぞきこんだ。でも、それには何もコメントをしなかった。多分、思いのほかうまいから何も言えないんだろう。
「住むところがないのですか?」
「ああ、家なんてないさ。いろんな国を放浪してたけど、最近は日雇い労働仲間ができたから、今は一応この国に落ち着いてるかな」
「放浪仲間ですか」
「そ、の、と、お、り!」
私はでかい声で叫んで、片膝を立てた。
「あまり大きな声を出さない方が良いですよ。お城の者に見つかってしまいます」
王子はそう言って立ち上がった。
「そろそろ夕食の時間なので、僕は行かなければなりません。では…」
「王子、名前は何て言うんだ?」
私は、すくっと立ち上がった。
「僕はフィリップです。この国の“住人”として、覚えておいてくださいね」
王子はまた微笑を浮かべた。そして、くるりと背中を向けて去っていった。
「フィリップ…」
私は、わけもなくつぶやいて、空を見上げた。
夕暮れの空に、茶色の落ち葉が舞う。まだ秋になったばかりだというのに、この頃寒くなってきたな。私は少し身震いした。
私は、あの日にフィリップがいたバルコニーに目をやった。当然、誰もいない。みんなごはんを食べているんだろう。暖かい大きな部屋で、立派な料理を…。
王家の暮らし。何にも不自由なく、全てに恵まれている。寒さに震えることもなく、パンを得るために必死で働くこともない。でも、それならどうしてフィリップは、あんな物憂げな顔をしているんだろう。
私は、片手をポケットに突っ込んで町を歩いていた。昨日の仕事で結構稼いだから、それで2,3日は生きていけそうだ。
まったくこの国はひどいもんだ。女をまるで性奴隷のように扱う。男は体力があって勇敢で、女とたくさん交わっているほどかっこいい。どいつもこいつも、何人の処女を頂戴したかが自慢話さ。こないだ仕事で行った村なんて、新婚夫婦は結婚した翌日に、嫁が処女であったことを示すために血のついたシーツを家の前に掲げる風習があった。
「俺の嫁もちゃ~んと処女だったぜ。俺は結婚までに15人とやったけどな!」
そう言って、通りがかりの家の前にいた男は高らかに笑った。
「おう」
そう言いながら、私は夫の脇でうつむいている乙女を見ていた。
フィリップだったら、こんなばかげた風習に何て言うだろうな…なぜだか私はフィリップの顔を思い出して、街中の狭い空を見上げていた。
*
「フィリップ、結婚前に一人ぐらいやっておきなさい。わしの側女の中から選んでもよいぞ」
父の脇には、たくさんの若くて華やかな女性たちがいて、みんな媚いるような目でこちらを見ていた。
「さすが王様、愛するご子息のため、器が大きいですなあ」
年配の家来がそう言って、僕の方を向いてにっこりした。僕は父の座っている玉座を前にして、ただ黙っていた。
「フィリップ、女に興味はないのか?」
父は立ち上がって、こちらの方に歩いてきた。
「この国の跡継ぎが生まれぬぞ。まさか同性愛者などではあるまいな?」
「違います、僕は…」
「んん?」
父は、僕の顔をのぞきこんだ。
「僕は…男にも女にも興味がありません…」
「馬鹿者!いい年をしよって」
父は、右手で僕のあごをぐいと引き上げた。
「お前が女に興味がないのは、この国に未来がないも同然だ。女を制し子を作り、国を治め栄えさせていく、それこそが王位を継ぐ者の使命じゃ。それをしようとしないのなら、お前は生きていて意味がないも同然だ!いいか、お前の好き勝手な気持ちですむものではない。王子として、来年の春には結婚を控えている身として、よくよく考えなさい」
「…」
「分かったか!?」
「…はい」
僕は、父の顔を見て仕方なく返事をした。
側女たちのすぐ横には、将軍とその娘ロクサンヌがいた。ロクサンヌは扇子を片手に、少しあきれたように笑みを浮かべてこちらを見ていた。
*
畜生、畜生。ふん、気にするもんか。
今日はいつもより肉体労働だった。ひたすら思い荷物を運ぶ仕事だ。みんなで士気をあげているうちに、筋肉の自慢し合いが始まった。
「俺の体力なめんなよ!ほら見ろ!何もないように見えてこんなに鍛えてんだよ!」
前から仕事仲間のファブリツィオはそういうや否や、荷物を置いてシャツを脱いだ。
「本当に何もないな!俺の体を見りゃ分かる!」
赤い髪のそばかす男も続いて服を脱ぎ、腕を曲げて見せた。
「はぁ、そんなんで自慢なんかできるかよ?見ろよ!」
黒髪の日焼けした男も服を脱ぎ、胸を張って腕を曲げた。二の腕が隆々と盛り上がる。
「なんだ?俺の方がすごいじゃねえかよ」
「俺の方がすごいだろ!」
そばかす男と日焼け男がにらみ合った。今にも取っ組み合いが始まりそうで、周りにいる男たちも盛り上がっている。私は思わず3人の筋肉を眺めていた。
「ジャックもぼけっとしてねえで筋肉見せろ!」
…。
「ぼけっとなんかしてねえよ!」
ためらってはいられず、私はすかさずシャツを脱いだ。
胸をつぶすために布を撒いているけど、私だってそれなりに引き締まっている。
「なんだ、お前。胸に怪我でもしてんのか?」
日焼け男が、間の抜けたような顔をした。
「お前…まさか女なのか?」
そばかす男がそう言うと、周りの男たちはヒューヒューと口笛を吹いた。
「男だよ!」
「嘘つけ!女だ女!」
「男たちの癒しにもう一枚脱いでみろ!」
「強がって隠してるオッパイ見せろ!」
周りの男たちは、ますます激しく口笛を吹いた。ファブリツィオだけが黙っている。
「うるっせえ!!俺が男だと言ったら男なんだよ!怪我してようが何だろうが、荷物運べりゃ構わねえよ!くだらねえ話にうつつ抜かして、お前らの給料全部俺によこす気か?なら喜んでいただきだぜ!!」
私はそばかす男が持っていた麻袋と、日焼け男が持っていた木箱を持ち上げた。
「売春して大金稼いでろ貧乏女!」
2人の男は、すかさず私から荷物を奪い返した。
「男だっつってんだろ!!」
「おいお前ら何やってんだ!さっさと運べ!」
雇い主が鞭を持ってやって来て、男たちは途端に静かになり、そそくさと荷物を運んでいった。
「どぅあー!!」
私はため息をついて、お城のそばの草むらに寝そべった。
別にお城が好きなわけではない。たまたまここの草むらが気持ちいいだけだ。
お城の庭の方から、女たちのキャピキャピした声が聞こえてきた。私は寝そべったまま、そちらの方に目を向けた。
「ロクサンヌ様、将軍のお嬢様とだけあって、武術を身につけておられるのですか?」
「また、とんでもないお冗談を!」
ロクサンヌと呼ばれた、ひときわ立派なドレスを着た女がそう言って、女たちは高らかに笑った。
「王様と言ったら、一年くらい前に私のところにお入りになっただけで、それ以来全くいらっしゃらないの」
「あらぁ、わたくしなんて先月お城に召されたのに昨日でもう9回目よ、オホホホ」
「私なんて、数えておりませんわ」
「まあ、お年を召しても、盛んな王様でございますわね」
ロクサンヌがそう言って、女たちはさらに高らかにオホホと笑った。
「それに対して、私が嫁ぐ王子様と言ったら…」
ロクサンヌが、あきれた顔をした。
「全く情けないわよねえ。王様の深いご慈悲にも関わらず、こんなに美しいわたくしにも目をくれないなんて」
側女の一人が言った。
「あら、まずお目をかけられるとしたら私よ」
「私ですわよ。嫡子でなくていいから、王族の子どもが産んでみたいですわあ」
「まあ、あの醜いお顔はちょっと嫌ですけれどねえ。でも、姫君に、そしていずれは女王になれるというのなら、父がますます豊かな将軍になれるというのなら、あのような男に抱かれるのも、私は一向に構いませんわよ~オホホホホ」
「ロクサンヌ様、うらやましいですわ~」
大体の話は分かった。ロクサンヌというのは将軍の娘で、フィリップの婚約者だ。そして、他の女たちは王の側女で、フィリップと床を共にすることまで考えている。フィリップもまた、王や周りの人たちに、たくさんの女と寝ることを勧められているのだろうか。
私は、不意に起き上がった。その物音で女たちが私に気づいたんじゃないかと思って振り返ったけど、女たちは少し離れたところに行っていた。
私は下を向いた。はじめて見た王子の顔が思い浮かんできた。あの物憂げな目。その理由が、何となく分かるような気がした。そして、あの憎らしい女どもが思い浮かんだ。
私は、ただの貧乏絵描きに過ぎない。王家のことに思いを馳せる資格などない。
「うわあぁ…」
思わず私は泣き出した。うずくまって草をむしり、わけもなくいつまでも泣き続けた。
「ジャック、今日の稼ぎはどうだ?」
「今日は3枚売れたよ。お前は?」
「なんだ、絵描いてたのか。俺は全然だよ。あんだけ頑張って働いたのにこれっぽちだ」
ファブリツィオはそう言ってパンが3つほど入った袋を掲げた。
「まだましじゃねえか。俺なんて雇い主に騙されて給料が予想の半分より少なかったぜ」
ダニーはそう言って、手に持っている小さなパンをかじった。
私たちはこの橋の下を溜まり場にして、好きなときに集まって食ったり寝たりしている。日によって来る人はまちまちだけど、大体全部で7人にも満たないだろうか。今日は少なくて、一番仲良しの3人組だけだ。
ファブリツィオは日雇いの他に音楽で生計を立てている。一つの体でたくさんの楽器を操る様はなかなか人気らしい。本人が言うには。
ダニーは主に手品で生計を立てている。本人談ではそこそこうまいらしいけど、収入は結構不安定で、上達するために熱心に手品の研究をしている。
「お前、半分食えよ」
ファブリツィオはパンを1つ取り出してちぎり、ダニーに渡した。
「ありがとう」
「そういう日もあるさ。ジャックも食えよ」
ファブリツィオは残りの半分をこちらに差し出した。
「俺はいいよ。一日遊んでたようなもんさ」
「そう言ってねえで。腹減ってんだろ」
「…ありがとう」
私はパンを受け取ってかじった。
「日雇いで生きてくのも大変だよな。たとえ食うためといっても、どうしても働く気がしねえ日だってあるさ」
私はパンをほおばりながらそう言った。
「だよな。暗くなってきたから火たこうぜ、ジャック」
「おう、任しとけ」
私は、ウィンクして親指を立てた。近くから枝を拾ってきて、火をつける。
「お前、火起こすのうまくなってきたな」
寝そべっているファブリツィオが葉巻を吹かしながら言った。
「お前の葉巻ぶちこめば一瞬で火がつくのによ」
「何を。葉巻は吸うもんだ」
そう言ってファブリツィオはもう一服したけど、結局たき火の中に葉巻を放り込んだ。
「寒くなってきたよなあ。火が恋しくなってきたぜ」
ダニーは身震いして、火の前で手を擦り合わせた。
「なあダニー、この国の王子は不細工なのか?」
私はさりげなく聞いてみた。ダニーはこの国の生まれ育ちだ。
「知らねえ。まだ顔見たことねえんだよな」
「俺は見たことあるぜ。王子の顔も、王と女王の顔も」
「まじかよ?」
私は自慢げな顔をしているファブリツィオの方を振り向いた。ファブリツィオも私と同じく他の国から来てるけど、大分長くいるらしい。私は王と女王の顔はまだ見たことがなかった。
「目がちっちゃいけど、くりっとした瞳の王と、目が大きくてそこそこ美人だけど、うつろぎみな顔の女王。王子はその悪いとこ取りなのさ。自分でも顔を気にしてんのか、なかなか姿を見せねえけど」
「ふーん」
「それに、噂によるとずいぶん高飛車な口をきくらしい。まったくこの国の将来が楽しみだぜ」
ダニーがサイコロを手の中で転がしながらつぶやいた。
「国がどうなろうが、俺たちは俺たちだ。こうやって楽しく生きてくのさ」
ファブリツィオがそう言って、もう一本の葉巻に火をつけた。
「葉巻吸うなんてお前、ずいぶん金持ちだな」
「金持ちじゃねえよ、自分で作ってんだ。それも“なんちゃって”だよ。ジャックもやるか」
「いらねえ。どうせまずいだろ」
私は笑って、寝っ転がった。
「ちっ」
ファブリツィオは、焦げた葉っぱの香りの煙をふーっと吹いた。
「ジャック、王子のこと、なんか気になってたのか」
ファブリツィオが葉巻をたき火に放り込んで、こちらを向いた。
「や、みんな不細工だって話してるからさ」
「お前、王子と自分どっちがかっこいいか比べたいってか?」
ダニーが、にやにやして私の肩を抱いた。
「そりゃ…俺の方がかっこいいに決まってんだろ」
私はそう言って前髪を撫でた。
「おらおら自惚れやがって~」
ファブリツィオとダニーが私をつっついた。
スケッチを見返していて、私はお城を描き途中だったことに気づいた。
今日は朝だけ仕事をして、軽い昼ごはんを済ませるとお城に向かった。
いつもの場所に来てしゃがみこみ、私はスケッチブックを開いた。
「続きを描いているのですか?」
不意に声がして、私は手を止めて顔を上げた。
フィリップが私を見下ろして、笑みを浮かべていた。
「なあフィリップ、みんなお前のことが不細工だって言うんだよ」
途端に、フィリップの顔が曇った。
私は、フィリップの顔をのぞきこんだ。
「…そんなに…じっくり見ないでください」
「だって…」
私はちょっと目をそらしたけど、またフィリップに向き直った。
「私はそう思わない!」
フィリップが「え?」という顔でこちらを見た。
「フィリップは、すごくきれいな目をしてる…私には最初から見えて…あっ」
私は、両手で口をふさいだ。自分のことを「私」と言っていたのだ。
「お前の言う通り、お前を描くのは本当に難しいよ。その瞳の美しさは、この腕にも敵わない…」
私は立ち上がって、フィリップの瞳を見つめた。
「…醜いから描くのが難しいだろうという意味だったんです。僕は見た目も良くないし、口も悪い…」
「悪い人間だったら、そんなきれいな瞳をしてないさ」
私は思わず身を乗り出した。
「僕などは…」
「フィリップ、この絵今すぐ完成させるからさ、ちょっと待っててよ」
私は、さっとしゃがんで、全速力で鉛筆を動かした。フィリップはその間、待ってくれていた。
「おまたせ!」
私は柵の隙間から、スケッチを差し入れた。フィリップは受け取って、私のスケッチをじっと見つめた。フィリップの目が、少し見開いた。
お城のバルコニーから、フィリップが両手を広げて白い鳩をいっぱい飛ばしている。それを優しく包み込むかのように、天から太陽の光が注ぎ、虹がかかっている。一色の鉛筆で、私は精一杯それを描いた。そのまましばらく眺めていた後、フィリップはスケッチを私に返した。
「ありがとう」
フィリップは微笑んだ。これまでの、なんだか蔑むような笑みとは違う。自然に、心から微笑んでくれている。
「フィリップ…」
私は改めてフィリップの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は…女だ。襲われるのや身売りをするのが嫌で、男として生きてるんだ。ジャックじゃない…本当の名前は…ゼルダ」
「ゼルダ…」
フィリップも私に負けないくらい、私をじっと見つめた。
「ゼルダ…ありがとう」
「私こそ…ありがとう」
何がありがとうなのか、自分でもよく分からない。
「ゼルダ、またあなたの絵が見たい。また…ここに来てください」
「もちろんさ」
私は柵をつかんで、フィリップに微笑んだ。
私は、仕事がない午後には、お城に出かけていった。私が行くと、大体の時はフィリップがいた。私はひたすら明るい絵を描いて、フィリップに見せ続けた。
フィリップは私の絵についてはほとんど何も語らなかった。ただ絵をじっと眺めて、「ありがとう」と言って私に返した。
私は、その「ありがとう」の微笑みだけで十分に元気をもらえた。そして、私の絵もまたフィリップに少しでも励ましになっていてほしかった。
こうして、働いて食べて、溜まり場で仲間とふざけ合って、絵を描いてお城に行く日々が続いた。
私にとってこれまでにない寒さにちょっと不安を覚えてきたし、お腹が満たされることなんて滅多にないけど、男としてバリバリ働いて、仲間とじゃれ合って生きていくのはなかなか愉快だった。あの筋肉自慢し合いの日のことで、ファブリツィオは何も言ってこなかった。
*
一日が終わって、僕は自分の部屋に戻った。着替えて、すぐにベッドにもぐりこむ。布団の中に隠していたうさぎのぬいぐるみを出して、久しぶりに抱きしめてみた。
僕が10歳になった頃、もうぬいぐるみは捨てろと父に言われた。小さい頃から大事にしているものを、そんなに簡単に捨てることはできない。他の動物のぬいぐるみは召し使いたちが捨ててしまって、その時たまたま他のところにあったこのうさぎのぬいぐるみだけが残っている。でも、僕は昔から人形遊びが大好きだったから、1つのぬいぐるみだけだと正直ちょっとさみしい。さすがに16年も持っていると、ところどころほつれたり、穴が開いたりしてくる。その度に自分で縫い直して、大切にしてきた。僕は裁縫も好きだ。僕の趣味に唯一理解を示してくれる侍女のアンナから裁縫道具をもらって、洋服や小物を縫い直したり、こっそり飾りをつけたりしている。
今日も食事中、父にお前は本当にだめだと言われ続けた。せっかく得た勉学の知識を何にも使おうとしない、なんとか馬には乗れるくらいで武術もろくに身に付かない、顔も父とは違って不細工…お前はでき損ないだとまで言われた。おかげで食事が半分も食べられなくて、もうお腹が空いてきた。
僕はぬいぐるみをもう一度ぎゅっと抱きしめて、天井を見上げた。なんで男だからと行って、強かったり、かっこよかったり、色好みだったりしなきゃいけないんだろう。なんで裁縫や人形遊びが好きではいけないの?やりたいことをやって、やりたくないことはやらなくて、何がいけないんだろう?僕が変なのかな。本当に僕は、でき損ないなの?神様は、どうしてこんな僕を王子なんかに生まれさせたの…?
このお城の中には、僕に優しくしてくれる人たちも何人かいる。アンナのように、僕の気持ちを理解しようとしたり、話を聞いたりしてくれる人はいる。だから、何とか毎日を過ごせている。でも、僕は、本当に言いたいことを、心の底に眠っている気持ちを、お城の中の誰にも話せないでいる。
だからといって、僕がお城を逃げ出して生きていくなんて、想像できない。ゼルダみたいに、放浪しながら生きていくんだろうか?そんなの、できっこない。
明日の行方も分からないのに、ゼルダはすごく生き生きとしていて、彼女の描く絵はとても明るい。彼女の絵を見ると、なぜだか元気がわいてくる。
ゼルダ…彼女なら、僕の本当の気持ちを聞いてくれるのかな…?
ゼルダに出会ってから、自分の生活に対する疑問や、なんだか納得がいかない気持ちが、僕の心の中に増してきていた。
*
私はわけもなく、お城の柵に寄りかかって腰を下ろしていた。
なんだか今日は絵を描く気がしない。そもそも木枯らしがいつもより強くて、紙が飛んでいってしまいそうだ。
空を見上げて腕をこすっていると、サクッサクッと足音が聞こえてきた。
私は振り向いた。フィリップがこちらの方にやって来る。
「フィリップ?」
フィリップは、いつもより格段に暗い顔をしていた。
「捨てられた…ぬいぐるみを」
「ほ?」
「大切にしていた、最後の一個を…」
フィリップは、私の前で崩れ落ちた。
「小さい頃から、ずっと大事にしていた…」
フィリップは、両手で柵をつかんだ。両目に涙があふれている。なんだか、心の中に焦りのようなものが出てきた。フィリップは、嗚咽をもらして泣き出した。何を言っていいのか、何をすべきなのか、全く分からない。
「どうして…ぬいぐるみを大切にしていちゃいけないの…なんで…王子だからって…男だからって…こんなにたくさんのことを押し付けられなきゃいけないの…どうして僕は…王子なんかに生まれたの…」
私はただ、口をあんぐり開けてフィリップを見つめていた。
「みんな僕を“国の将来を担う立派な人”としか見ていない…立派なことばかりするように仕向けられて…女たちには、“この人の寵愛を受ければ王族の子どもが産める”としか思われてない…それでも自分は、いざ人と話すとなると“権威”にしがみついて…」
柵をつかんで泣いているフィリップが、まるで牢屋に閉じ込められている人のように見えてきた。
「フィリップ、私も聞きたい。なんでフィリップは、こんな中身も外身も汚い貧乏人に、そんなに素直な気持ちを話してくれるのさ」
フィリップは、涙をこぼしながら私の顔をまっすぐに見つめた。
「ゼルダ…あなたは、はじめて僕を一人の人間として見てくれた…“王子”としてではなく…“男”としてでもなく…」
一瞬、フィリップの言うことの意味が分からなかったけど、はっとした。王子だって、一人の人間だ。何となく頭では分かっていたのかもしれないけど、何となくフィリップを“王子”という枠に当てはめて見ていたのかもしれない。フィリップの私に真剣に語りかける瞳は、私ら貧乏人と全く同じだ。ファブリツィオが音楽を奏でる時の表情、ダニーが試行錯誤しながら手品の研究をする真剣な眼差し、そして…私が懸命に絵を描いている時も、同じような瞳をしているのだろう。
私は柵から手を伸ばしてフィリップの背中に触れた。そして、もう一方の手も伸ばして、フィリップの肩を抱いた。見たこともないような立派な服を着ているけれど、私がいつもつるんでいる仲間たちと同じように、温かい。
「フィリップ、今ほんとに分かったよ。貧乏人も王子も、同じ人間だ。同じように、泣いて、笑って、食べて、悩んで、一生懸命生きている」
「もう、生きているのが嫌だ…」
今にも消えそうな、か細い声だ。フィリップは顔をぐしゃぐしゃにして、涙をぼろぼろこぼした。
「フィリップ…私には、こうして柵の向こうから話したり、絵を見せたりすることしかできない。それも、働きながらだから毎日ではないし。それに、こんな寒いところで暮らすのははじめてだから、この冬で死んじまうかもしれないぜ」
半分冗談だったけれど、フィリップは、はっと顔を上げた。
「ゼルダ…」
フィリップは、柵の向こうからそっと手を伸ばした。そして、私の頬に触れた。
「でもさ、こうやって、少しでもフィリップの生きる希望になってるんなら、それだけで私は嬉しいさ」
私がフィリップを温かいと感じたように、フィリップも今私のぬくもりを感じているはずだ。
「大丈夫。死にやしねえよ。少なくともあんたの心から消えたりはしない。私の心の中にも、いつもあんたがいるよ」
私は、頬に触れているフィリップの手を取り、両手で包みこんだ。
「そして、決して手離さない。今も、これからも、ずっと」
「僕も…絶対に離さない…」
私はフィリップの手にキスした。そして、いつまでも握り続けていた。