前の話のおさらいであるが、仏教3・0では、
青空の私がいて(大我)
雲の私がいて(小我)
世界観とは雲の私が見ている
間違った映画である
というモデルになっている。そのほかにも、色々あるが大体これがわかれば、話について行ける。
苫米地英人氏は、この「間違った映画」をうまく使えば、自分は金持ちと錯覚して、金がついてくる。というアファメーションという技法を本にしている。これは、引き寄せの法則もそうである。
つまり、意図的に間違った良い映画を見れば、幸せになれる。というもの。苫米地英人氏は、ついに量子論では、意識情報が物質に大きな影響を及ぼすことが証明されたから、念じたままの世界がそのまま現れるとまで言っている。(もっと遠回しな表現だけどバッサリ書いた)
しかし、仏教はそういう良い映画も、最終的には悲劇になるという結論になっている。だから、そもそも映画ではなく、事実をできるだけありのままに見ることだ。ということを言っている。これも、頷けてしまう。
まあ、どっちを取るかは自由であるが、全てをストーリー仕立てにして、映画にしてしまう人が鬱になりやすいのは、なんとなくわかるのだ。そういう意味では、何も考えていない馬鹿の方が健康なんだろう。あと、苫米地英人氏とか、引き寄せの法則とかは、常にポジティブなイメージをしないといけない。これがしんどいと思う。
かといって、仏教にイメージが不要か、というと、必要で、私の読んでいる本はここから、「慈悲」や「大悲」とは何か?どうして、それがないと、ダメなのか?という話に進んでゆく。
いや、もちろん、私が誤読している可能性はあるけど、多分こんな流れになっている。
