1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で初主演。1953年『ナイアガラ』での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。
野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは一人ホテル(旧帝国ホテル)で待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローには断る理由がなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。彼女は戦車に乗り、多くの荒くれ兵士たちを前にして歌い、自分が一番光れる場所で光り輝いた。だが、韓国から帰ってきたモンローは、風邪を引いてしまう。治療のため呼ばれたのが、指圧の心の浪越徳治郎であった。彼は全裸のモンローに指圧を施した。
その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。マーロン・ブランドと『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。1955年ディマジオと離婚。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性人格障害と診断されたが、正確なところは分からない。
1961年にアーサー・ミラーと離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている[誰に?]。同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。
1962年、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。