中日新聞2月16日号で中日新聞


 人生のページの中から


 本を読むことについて


 父親が娘に話すように優しく書かれていて


 この言葉を、本を読んでいない人に


 ぜひ読んでほしいと思い


 ここに、スクラップしておきますクラッカー


 本来は、中日新聞2月9日号に上がのっていて


 今回は、その後半部分になります


 

 大学生の君へ  下


 山田史生  弘前大教授



 現実を超えるための読書

 

 見える物を信じて


 

  本を読むことは、旅をする事に似ている。


 旅先で息をのむような風景に出会ったとき、


 旅人は「この景色の意味は何だろう?」なんて


 問うたりしない。


 本を読むのもいっしょじゃないかな。


 言葉が紡ぐものは、目もくらむような大草原だったり


 足がすくむような大都会だったりする。


 それに出会って息をのめばいいのさ。


 

  言葉では表せないものもあるって?うん。


 それも事実だ。


 しかし言葉で表せる世界は、言葉で表せないくらい


 広く、深い。


 言葉でしか味わえない美味があり、言葉でしか


 知られない知識があり、言葉でしか蘇れない記憶がある。


 

  偉大なものに子どものように心を震わせ、


 面白いものに子どものように目を輝かせること、


 それをできるのが「教養」だ。


 ただし子どもに教養を求めるのは無理だ。


 バッハの音楽に心を震わせるためには、


 カントの哲学に目を輝かせるあめには、


 ディテールを見つめる目やニュアンスを味わう


 舌を、ゆっくり時間をかけて鍛えなくちゃならない。


 それには本を読むのがうってつけだ。


 

  分かりにくい本を読むとき、私は赤鉛筆で


 線を引きながら読む。


 本に念を引くのには勇気が要る。


 そこに線を引くということは、


 「そこに線を引くような自分である」ということだからね。


 「ここぞ」という急所に線を引いたつもりで、


 後で読み返してみると、さっぱり要領を得ないことがある。


 それは自分の頭でちゃんと読めていない証拠だ。



  分かりにくいからと言って読むのをやめてしまうのは、


 もったいない。


 はじめに出てきた「分かりにくい」複線的な場面が、


 あとになって「分かってくる」ってことは、しょっちゅうだから。


 ただし「お呼びでない」と感じたら、栞をはさみ、


 机の上に放っておこう。


 その本は「もう」あるいは「まだ」君には合わないのだ。


 本を読むにはタイミングがあるんだよ。


 手も、足も出ない本を無理して読むことは無い。


 君が再び手に取るまで、本はいつまでも待っていてくれる。


 何年かたって、ふと手に取ってみると、スラスラと


 頭に入ってきたりする。



  大学の授業で教えられるのは、「分からない」本を


 「分かる」ようにする読み方をじゃない。


 簡単に読めそうな本の中に、いかに多くの問題点が


 潜んでいるかに気づかせ、読めると思っていた本が


 読めなくなってしまう、そういう読み方を教えているんだ。



  人間の本性は「欠けている」ということにある。


 だから人間は、欠けているものを絶えず充たそうとする。


 存在が充たされるとき、人は楽しみを覚える。


 本を読んで「分からない」ことを味わうというのは、


 存在を充たすための、たぶん最も有効な手段だ。



  本を読むと存在が充たされるのは、外からの


 知識をインプットされるからじゃない。


 本の言葉に触発され、自分でも思いがけないような


 仕方で、自分のなかから新たな言葉が生まれてくるからだ。


 優れた本は、深く読めば読むほど、新たな問いが


 生まれてくるように書かれている。


 深く読むに値する本を読んで、すぐに「分かった」と


 言うようなら、その発言自体がその本に対する読みの


 浅さを示している。



  生きるとは、現実を踏まえながら、現実を超えてゆくことだ。


 現実を超えるとは、目に見えない物を信じることだ。


 目に見えないものを恐れていると、その未来は安全かも


 しれないが、貧乏くさくなる。


 ところが現実を超えていく力を、悲しいかな、現実は


 与えてくれないんだよ。


 本を読むことによって、目に見えないものを信じることを


 練習してほしい。



  本を読むというのは、目的を定めて「買い物」をすることじゃない。


 心地よい風に顔をなぶられながら、ぶらぶら散歩することだ。


 とはいえ散歩にも、まったく目的がないわけじゃない


 (それだと徘徊になっちゃう)。


 散歩とは歩くこと自体を楽しむことだ。


 歩きながら見えたり、聞こえたり、感じたりすることを


 楽しまなきゃなんない。


 だから散歩するときは、いつも偶然の出会いに心を開いて


 いよう。


 

  君は本を読むことが好きだよね。


 そういう君を、父親として頼もしく思う。


 われわれの将来は、問題をサクサクと解くことができる


 即戦力のエリートよりも、目に見えないものを


 グズグズと考え続ける愚直な落ちこぼれのほうに、


 よほど多くの物を期待しなきゃならないのだからね。


 娘よ、君にはそういう若者であってほしい。




 長文ですが、削ってしまうと意味が変わってしまうといけないので


 そのまま載せました


 これを読んで、何かを感じてくれればうれしいですラブラブ