よもやま話。

Twitterで先日、俳句の写生論に関する今井聖さんと島田牙城さんのやり取りがあり、一通り追ってみたけれど、不勉強で予備知識がない為、意味がわからない所が多かった。

 

まず、今井さんのこの発言にのけぞった。

「写生」から諷詠的情趣を抜けば、「写生」は現実にも超現実にもなる。

(引用元:https://twitter.com/imaisei/status/890951272978800640

「写生」に「諷詠的情趣」がそもそも含まれていたのか!?と思ったのだけど、その後に展開する島田さんとのやり取りをみるに、「写生」の定義が双方で異なるようにも思え、ますますこんがらがった。

前後の発言を見渡すに、今井さんはアンチ虚子のようなので、虚子の定義した「写生」に関する言及かなとも思うけれど、ちゃんと勉強していないので推測の域を出ない。

 

Wikipediaの「写生」の中に、「文学における写生」という項目があって、コンパクトにまとまっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/写生

うーん、もともと絵画の分野の言葉だった「写生」を文芸に引っぱってきた事で、語の定義を追求すればするほどなんだか抽象化しがちな気がするというのが、句歴数年の初心者としての正直な感想。

虚子は更に「客観」を上乗せして「客観写生」なるものを提唱しているし、こうした概略・まとめではなくて、当時の彼らの論をきちんと腰を据えて読まねば、多分きちんと把握はできない。

 

とりあえず買ったきり積ん読になっていた「俳句への道」(高浜虚子/岩波文庫)をぱらぱら見ると、客観写生について言及している箇所が幾つかあって、ああそういうことなのか、と腑に落ちたのが、以下の数カ所。

 

また、人を導く上にも私の信ずるところの客観写生を以てします。それは決して感情を粗末にせよという意味ではありません。感情は内に籠めて置いて露わに出さずにその感情の上に立って客観写生をせよという意味であります。(「俳句への道」p.132)

 

感情は前に申したように、心の底にたぎっているものでなければ駄目だと思います。地球の内側には恐らく激烈無比の烈火が伏在しているのであろうと思います。それと同じく、地球の子であるわれら人間の心の中にも絶えず熱情は燃えたぎっているのであります。その感情の上に生れた俳句や文章は、一見冷静な客観句や文章であって、その実深いところに潜む熱情に動かされたものであることに気づいて来るでありましょう。(同上、p.132〜133)

 

これらの言を、<客観的な描写の内に、おのずと作者の感情・熱情は透いて見えてくるものだ>という意味に私は解釈した。

腑に落ちると同時に、これは、なんという高みを要求するんだ、とも思った。

感情を抑えても自然と描写ににじみ出ること、これは経験値が、人生と表現の双方の丹念な積み重ねが必要だと思う。感情を感情のままにまかせて発露するような日常を送っていては、表現する際に手綱を引く意識がなければ、作句する際も同じ立ち位置でしか作句できない気がする。

そして、読者も同じ高み、視座を要求される。平易な描写に対してただ拍子抜けして「なんだこりゃ」と思うのか、それともその句の奥にある感情、思いを読み取ってしみじみできるかは、やはり人生の喜怒哀楽などの経験値や、言葉の使い方にどれほど意識を配って生きてきたかに左右されると思う。

うーん。

何年俳句をやれば、そんな境地にたどり着けるんだろう?

 

話は変わるが、虚子の文章は、基本的に明快で主張や根拠がはっきりしている感じで、割合にとっかかりやすい。

明快なだけに、読者を説き伏せようとする臭みも感じられることがあるし、内容に納得するかどうかは別の話であるが、それでも、それっぽい雰囲気のことをかっこいい言葉で飾って書いているだけの文章では、ない。そこは、ありがたい。

さすがに小説家を目指していただけあるなと思うし、長生きした分、俳論もそれだけ多いようなので、これからいろいろ学ぼうとする人にはありがたい手がかりの一つとなる気がする。果たして積ん読解消できるのかどうかは非常に怪しいところだけれど。とほほ。

 

で、肝心の俳句の「写生論」については、未だ端緒を知っただけである。

提唱者である子規の論もまだ見ていないし、なんかもう追いかける気もなくなってくるのだが、最後にひとつ、北大路翼さんの説が、目から鱗だったので記録しておく。

 

北大路 見たものをそのまま詠むことが、俳句の「コツ」になります。見たままを詠むというのは千葉さんのいうところの思考の停止、中断なんです。考えると堂々巡りになってしまうところを視覚で思考をいったん強制終了するというか。いわゆる「写生論」は何をどう写すかということに重点が置かれてきましたが、本当に大事なのは中断装置としての写生なのだと、『勉強の哲学』を拝読してピンとくるものがありました。

(引用元:

http://tocana.jp/2017/08/post_14103_entry.html の2ページ目)

 

思考の強制終了、という表現はとてもわかりやすくて、なるほどと思った。

 

とどのつまり、「写生論」云々は、作句の際に無自覚に無意識にただ作るだけなのか、自分の視座、手綱の引き具合をきちんと意識して作るのか、その違いなのかな、とも思う。

うーん、そんな余裕は今のところない。ので、とりあえずここにメモ。いつか役立つ時がくればいいのだけど。