深い森の中で微かに聴こえるのが鳥の囀りならば、それは晴れた日の早朝のことだろう。海の底から見上げた空の景色は、水面で太陽の光が拡散してそれはそれは綺麗な景色になるらしい。月夜に輝く君の横顔は、世界で一番美しいという。

 何となく素敵だと思う表現が、ありふれた陳腐な表現で、特に考えるわけでもなくすらすら出てきてしまうのは、私に文才があるというよりもむしろ、私の感受性と文学に対する不誠実さを表しているようで嫌な気分になる。文学、というのは私にとって非常に大きな意味を持つもののはずだった。しかし今ではその文学に触れることが中々難しい。時間、気力、体力、まさか自分の趣味にこのような制約がつこうとは。最早これは趣味と言えるのだろうか?

 会話をしていても自分が定型文の中で立ち回っていることが自覚させられる。果たしてこれは私の言葉なのだろうか?所詮自分の言葉は誰かの言葉の借り物に過ぎないのだろうか?それならば一体元は誰の言葉だったのだろうか?結局言葉の問題に戻ってしまうのは、私がやはりどうしたって文学の民だからか。それとも、投げる先のなくなったボールを投げるこの場所が、文章以外を気安く受け入れてくれないからだろうか。

 自分の友人、好きな人のSNSはあんまり気軽に見るべきではないなと思う。常に自分のことばかり書いてくれていたら嬉しいが、別の人のことが書かれていると嫉妬するし、自分に反応がないと気分がしんどくなる。かといって、SNS以外に最早つながる手段のなくなった人との交流を絶っていいものかと聞かれれば、答えは圧倒的にノーである。

 雑文を書き散らかして、自分の思いを吐き捨てて、あらゆることにやる気が出なくて、もう何もしなくない。でも何も成し遂げていないから寝たくない。いや成し遂げたこともあったのだ、今日は。だが心が満足してない。何をすればこの器は満たされる?私はこの問題に関しては、愛が解決するのだと確信している。誰かからの愛を感じ、自分の存在が誰かの1番になり、自分も愛を届け、それを受け入れられ……。そんな日々を空想しつつ、それが届かない現実であるのではないかという恐怖に覚えつつ、毎日を過ごす。今日は病んでいる。明日は休もう。

 虚無としか言いようのない日常の中で、揺れ動くことの少なくなった心の所在を探りながら、それでも日々を生きていかなくてはならないのだから。