また小難しいこと風な無意味な戯言に手を出すんですってよ、この男。
どうもトミーです。
価値。漢字だけ見ると価格に値するとなっているから、はたから見ても納得できる代価に相当するものがあるということになる。人の価値、企業の価値、商品の価値、いろいろなものに価値があるが、では、それはどうやって決められているのだろう?
この商品は100円の価値がある。今、100円と言われている商品の値段は、誰がつけたのか?
「そんなのお店に決まっているじゃないか、馬鹿じゃないの?」
なるほど、その通りだ。店が値段をつけなければ、商品を市場に流通させる代価が不明になり、商品はお蔵入りになる。商品の価格を掲示するサーブ権は、商品を提供する店側にある。
では、最初のサーブを打ち込まれた客は、どう考えるか。高い、安い、高いけど妥当だ、これはお得だ。いろいろな人がレシーブを受け、口コミというトスも受け、買う、買わないのアタックを打ち込む。すると、どうなるか。消費者の声というボールを受けた店側は、それに合わせてレシーブするしかない。その結果、商品の価格は高くもなれば安くもなる。それを無視すれば、在庫という失点につながるからだ。価格は本当に店側が決めているのだろうか?
企業の価値はどうだろう?これは、消費者サイドからの評価と、従業員サイドからの評価に分かれる。消費者サイドの視点はわかりやすい。いいものを、お手頃な価格で提供してくれる企業に価値があるとされる。いいものといっても、いらないものを売られても仕方ない。困っていること、我慢していることを解決してくれる商品やサービスに対して、消費者はお金を払う。需要と供給だ。
従業員サイドの視点は、若干異なる。人によって、給料が高いこと、福利厚生がしっかりしていること、手当てが手厚いこと、といった、形のある見返りに価値を見出す人がいる。また、自分の裁量で仕事を回すことが出来ること、人から感謝されること、社会に足跡を残すこと、といった、やりがいの面から価値を見出す人もいる。これは人によって異なるので、一概に言えない。ただ、いづれにも共通するのは、会社は自分に何を与えてくれるかという一点だ。この需要が満たされないと、労働力の供給は先細りになっていく。
何をもって企業の価値が決まるのか、非常にめんどくさい事情が絡まりあっていて、「これだ」と言うことが出来ない。しいて言えば、自分は何に価値を見出すのかという指針に従うほかない。指針がない人は、流されるしか道はない。それはそれで、その人の生き方だが、個人的にその生き方には価値は見いだせない。人の価値というものが、まるでゼロと言わんばかりだからだ。そんな生き方は機械と一緒で、人間らしいとは思えない。あくまで個人的な見解だが・・・。
では、人の価値はどうだろう?何をもって人の価値が決まるのだろう?これまでの流れで、価値というものは様々な基準と比較する中で、相対的に決まってきているようだ。では、人の価値は、何と比較すれば決まってくるのだろう?それはもちろん、他の人と比較する中で決まってしまうのではないか。一方で、自分で自分の価値を見出す場合と、他者が考える価値とには、やはり根本的な違いがあるのも事実だ。
人は、自分自身を認識してくれる他者がいて、初めて自己を認識できる。「自己とは他者の視線のことである」という言葉を残した学者もいるくらいだ。自分を全く知らない大勢の人がいる中で、一人ぽつんとたたずむ時、すさまじい孤独感に苛まれるだろう。孤独は大衆の中にある。
これは、頭がいい、顔がいい、お金がある、といった、単純に割り切れるような話ではない。もっと根本の、「自分という存在を無条件で認めてくれる別の存在」という、ある意味で究極の自己愛を満たすことが出来るかどうかに関わってくる。それが親であり、兄弟であり、家族である場合が一般的だ。それだけでなく、友人、恋人、伴侶という、もともと赤の他人だった存在に認められる経験から、自己認識、自己肯定管は育まれる。自分は自分であっていいという、自分自身の価値を見出すことが出来るようになる。自分を信じることができて、初めて自分の中に揺るぎない柱が出来るのではないか。
逆に、他者が価値を見出すとき。これは、見返りを期待できるかどうかに関わる。この人と一緒にいたら楽しい、お金がかからなくていい、売り上げに貢献してくれる、会社に利益をもたらす、自分のステータスアップにつながる、自己満足を満たしてくれる・・・。他者の自己愛をどの程度満たしてくれるか、これに他者が見る人の評価は集約されるのではないか。
価値観なんて人それぞれだが、結局そこに行きついていく。でも、世の中で生きていくには人と関わらないことなんて不可能だ。その点を冷静に考えながら、自分の中の基準と照らし合わせながら、どの程度まで踏み込んでいけば、お互いに無理のない距離感を維持できるかと自問自答することが、生きるということなのかもしれない。めんどくさいが、やってりゃ慣れる。どこの国でも、みんなそうやっている。それができない人は、満たされない自己愛に飢えたり、自分を守ろうとするあまりに壁を作って悪循環に陥ったり。悲しい結果が待ち受けている場合がほとんどだろう。今できなくても、「どうせ自分には無理だから」と考えて諦めてしまうことは、無条件に存在を認めてくれている人たちに対する、究極の裏切りではないか。
人は変われる。肉体は進化しなくても、精神は無限に進化できる。誰かの価値観に振り回されるだけでなく、自分自身の価値をしっかりと見極め、社会の中に溶け込んでいくことが、現代社会を生き抜く上で最も大切な能力のような気がする。
諦めたらそこで、試合終了だよ。
