徳川頼房 | 第六傾奇王紋次郎のわかりやすい国盗りクイズと城めぐクイズの答え

第六傾奇王紋次郎のわかりやすい国盗りクイズと城めぐクイズの答え

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「第六傾奇王紋次郎」に改名しました。
「紋次郎」で覚えて下さい♪

今日は「国盗りクイズ」の問題内に
出てきた「鶴千代」について
書いてみました。

幼名が鶴千代という武将は
徳川初代水戸藩主徳川頼房(1603~1661)

 慶長 8年(1603)8月10日、家康公の11男として伏見城で生まれる。母は頼宣と同じ蔭山殿(於万の方)で、幼名は鶴千代。義直、頼宣の 2人の兄とともに駿府の家康公のもとで育った。家康公はこの一番下の男子である頼房をたいそうかわいがり、いつも膝の上に抱いていたといわれる。家康公の側室である於梶の方の下で養育を受けた頼房は、その後、家康公の命により、於梶の方の養子となった。
 慶長10年(1605)、3歳で常陸国下妻に封じられ、10万石を与えられた。ついで慶長14年(1609)には、兄の頼宣が駿河府中(のち紀州)に移ったため、水戸に加増転封となり、25万石を領し、水戸徳川家の祖となった。
9歳の時、慶長16年(1611)には後水尾天皇の即位の大礼のために家康公に従い上洛し、元服。しかし、大坂の陣の時には従軍を許されず、駿府城の留守を務めている。家康公からは亡くなる前に、兄である2代将軍秀忠を天とも父とも思い、「何事にも心いれて服事すべし」の遺命を受けた。その後、3万石が加増され、寛永14年(1637)には従三位権中納言に叙任されている。
 頼房は兄の義直や頼宣とは違って常府として江戸に身を置いていたため、政務は城代や家老が代行する形となったが、頼房自らも10数回入国し、領地経営に心を砕き、城下町を開設し、領内総検地を行うなどして藩政の基礎を固めている。又、頼房は武勇に優れていたといわれ、3代将軍家光の狩に随行した時には、兄である義直が射損じた猪を一矢で仕留め、家光から「今能登守」(能登守とは平家一の剛勇として知られた平教経(のりつね)のこと)と称えられたいう。さらに学問も好み、人見林塘らの学者を招いて四書五経を学び、京都の萩原兼従(かねより)に吉田神道の教えを受けており、『青社遺範』を著し、家老たちに政務担当者としての心得を諭した。
 頼房は寛文元年(1661) 7月29日に水戸城で没した。諡号は威。久慈郡(常陸太田市)の瑞龍山に儒葬をもって葬られた。瑞龍山には以後、歴代藩主らが埋葬されている。頼房には正室はなく、側室として、あの水戸黄門でおなじみ2代藩主光圀の母である谷氏や佐々木氏らが知られ、11男15女があった。
頼房没後長男頼重は讃岐国(香川県)高松藩主となり,次男光圀が水戸徳川家を嗣いだ。
ちなみに光圀は頼房の次男で、中納言の唐名(中国風呼び名)が「黄門」である。