最近何度か、中原中也や立原道造といういわゆる国民詩人として百年誰からも読み続けてられる詩人と現代の詩人について考える機会があった。考えるといっても論理立てて学ぶのではなく、窓の外を見ながら時に詩集を開いて、ぼんやりと考えるのである。

それは、中原中也や立原道造はどうして読み継がれるのか、そのことは私たち現代に詩を読むあるいは書く人間に何を意味しているのかということである。

中原中也や立原道造は個人的に書きたいと思うままに自分の感受性に誠実に書くならば優れた詩になると信じていたと思われる。それが許された時代であり、人間の歴史もそれを許していた。それが許されなくなるのは、二人が夭折した後の第二次世界大戦での殺人そして肉親が殺されるという経験とそれまでの強い筈の論理が簡単に敗北し占領され、人びとは過去の記憶を無くしたかのように、豊かさを求めて生きる戦後の時間を過ぎてからである。

中原中也と立原道造のように自分の感受性に誠実に書くならば、詩は万葉集以来続いている日本人がひとりの人間として生きる時の喜び、寂しさ、不安等の心情を表現することができ、多くの日本人に受け入れられる。しかし、この時その詩人が生きる時代に人間が通る闇や恐怖、人間の罪についてからは眼を逸らすことになる。それが個人的な心情や感受性に誠実に書くことだからである。

また、若い時にその時代や社会、そこを生きる人間の痛みを書いた詩人が、多く歳とると日本の伝統的な感受性、侘び寂びや七五調の詩あるいは俳句に向かっていくのは、近づいてきた死を考えると、人間関係である社会性や人類という他者の問題から眼が自分自身というひとりの孤独な人間の心情に向くからではないだろうかと思う。

萩原朔太郎や石原吉郎が晩年七五調になり、小林秀雄や三島由紀夫が日本的な伝統的美学と心情に安心感を見出して行くのは、そこに安堵と普遍的に感じられるものがあるからだと思う。西洋人には近代西洋文化が普遍的な思想として入り込んでいるので、死の前にそれまでの歩みから大きく後退して古い伝統的な心情に戻る必要がない。

なんらかの普遍性へ戻らないと不安な日本人はどこに戻るかというと、中原中也や立原道造の自然詠、心情詠の世界である。なぜなら、立原道造と中原中也の作品世界は老いと死に向かう心情と同じ世界だからだろうと思う。日本人はひとりで老いに向かい死に向かわなければならない時、中原中也や立原道造の自然や心情に普遍的なものを感じて戻っていく。

中原中也や立原道造の優れたところであり、また別の視点から見ると欠如しているところである。これがこれからも同じように日本人の戻るべき普遍的な心情だとしたら、日本人は現実を生きる厳しさや予想と違う危機的な状況や生活の困難さと、それを受け取る感受性にズレがあるまま生き続けることになるのではないだろうか。それが幸せか不幸せかはわからないが、もし詩を書くことを自分の人生の目的のひとつにしている人は、そのことで個人のなかに分裂を抱えたまま生きることになるのではないだろうか。表面に現れると三島由紀夫のような行動になるし、表に出てこなくても日本の社会は老いや死へ向かう時に昔のような親族が集まり慰めるという状態から変化しており、個人で老いと死の問題に向かわなければならないのだから、その精神は現実から解離したところでそれらの問題に向かわなければならないことになる。

これを避けることができたのは夏目漱石他少ない文学者ではないだろうか。現代に中原中也や立原道造が生きていて、老いて死に向かうとしたら、彼らはこの問題にはやはり伝統的な日本文化と美学をさらに深めることになったのではないだろうかと想像する。

日本では詩人が、伝統的な侘び寂びの世界あるいは個人的心情の誠実な吐露の世界に戻っていくのが多いが、それは、個人として書くことの普遍性をどこかに求めることを行わず、伝統的な普遍性にもたれかかることになるからだと思う。言葉の世界と現実の世界を覆う普遍性を言葉と生活に求めなかったか、途中で見失ってしまうのではないだろうか。

普遍性に立っているかどうか判断するのは作者ではない、数十年後あるいはそれ以上に未来の読み手である。

その間、書かれる詩は美しくなりようがなく、心地よいものでなく、多分作者の言葉の世界での必死の模索のように、意味やイメージを混乱させ、あるいは意味とイメージを破壊し、言葉が作者そのものであり、理解しづらく、伝統的な美しさを持っていない。

しかし、現代という希望であると同時に不幸である世界、平和に見える日常生活に生死の境の地獄を見ることがあるこの世界を生きていく人間にとっては、それが私たちの現実を表す表現ではないだろうか。

真実の普遍性を見つけることができるのか確信はないが、それを目指して書くのが今の詩人の存在意義のように思う。

安易な普遍性にもたれかからないように自分を見張らなければ危いところへ入り込んでしまう年齢、そして肉体的な状態になって、再度詩の普遍性について考えている。

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