現代詩と俳句、その現在の状態の概要を自分なりに把握するためにこのブログを始めた。私にとっては大切だが、実際詩や俳句を書いている方には無意味に思えるだろう。
なぜなら最初の視点の場が違うからである。
私には詩や俳句の世界で生活している友人や、その世界と関わっている友人はいない。過去にはいたが生活のためにいなくなってしまったと言うべきだろう。インターネットを通じての友人は別である。
また、私は詩集や句集を本にしようという思いがほとんどない。また、有名な詩誌や句誌に投稿しようとか、加入しようとかいう考えもない。
書くのは、私という個人の作業であるという考えが強いからである。個人のものなら、死のあと、何も残す必要はないという考えである。

このブログでは、俳句について書いてきた。次は詩である。

今の現在の詩と俳句を、私たちはどのように受け止めているだろうか、また同時にどのように区別しているだろうか。

*リズムが違う。
*現代語で自由律である。

さて、ほかに有るだろうか?

先ず、リズムが違う。これは明確である。五七五の俳句と現代詩ではまるで違う。

芭蕉が書いた次の句を超える詩を、その有無とその理由を私たちは明確にしているだろうかということである。

荒海や佐渡に横たう天の川    芭蕉

きみは泣く
海の向こうへ
天の川がのびる
きみは泣く
金を掘るひとと
いっしょに
爪で土を掘る

私が書くとこんなに拙い。

言葉を削り削り、ひとつの作品にすると次のようになるかもしれない。

海渡る空の川
きみ
生きているか
背は割れていないか
きみ
きみの背に泣く空

拙い私の翻訳詩でも、私にとっては詩である。これが現代詩の問題である。

俳句には宗主がいる。現代詩には、詩壇の偉い方々がいる。詩壇の大学教授の方々が現代詩を広く理解し、現代詩の次の道を示すことができるだろうか。これが、私が持っている疑問である。この問題は、俳句の世界でも同じである。

現代詩手帖、ユリイカは現代詩の壇である。俳句には俳句の壇がある。これは、歴史的にいつもそうであった。時に、その壇から離れたところで書き続けた句人、詩人がいたが。

現代詩は、大学教授たちの詩壇を打ちやぶることができるか?それが私のテーマである。

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