少年の死の白さ
嘆く声でできあがる時の断面
時を終点まで飛ぶことが目的なら
ひとの生の意味は
どんなに明確だろう
少女の手のソフトクリーム
老いた背から透かし見るこころ
死者をおおう結晶
これは先日わたしが書いてそのままの何行かである。今日はこれに一行を加えて、いくつかの全く別のイメージを与える詩(と読んでおきます)を作ろうと思う。
先ず一番目。書き始めから、作品全体の調和、あるいはまとまりを考えた場合。よって意味のつながりが重要視される。
少年の死の白さ
嘆く声でできあがる時の断面
時を終点まで飛ぶことが目的なら
ひとの生の意味は
どんなに明確だろう
青を流れる雲少女の手のソフトクリーム
老いた背から透かし見るこころ
死者をおおう結晶
きみは永遠に透けて見える
二番目は、まとめることを考えずに、言葉の世界のつながりに重要性をおいた場合。意味のつながりよりも言葉の世界の調和が重要視される。
少年の死の白さ
嘆く声でできあがる時の断面
時を終点まで飛ぶことが目的なら
ひとの生の意味は
どんなに明確だろう
青を流れる雲少女の手のソフトクリーム
老いた背から透かし見るこころ
死者をおおう結晶
きみは砕かれた生 わたしの呼吸にいる
三番目は、意味のつながりも、言葉の世界の調和も無視する場合。書き手の心の向いている方向が重要視される。
少年の死の白さ
嘆く声でできあがる時の断面
時を終点まで飛ぶことが目的なら
ひとの生の意味は
どんなに明確だろう
青を流れる雲少女の手のソフトクリーム
老いた背から透かし見るこころ
死者をおおう結晶
終点のむこう側にいつまでもわたしは立っている
下手な詩で説明するのは申し訳ないが、一番目が最も多いかたちだろう。だから、フォークソングになれる。現実を受け入れた風俗になる可能性もある。
二番目はフォークソングとして歌うには適さないが、言葉の世界でひとつの世界を作り、書き手は現実の世界にどのように向かうかは問題にされない。多分、一番目とこの二番目が、書き手から詩がこぼれる時のほとんどの場合ではないだろうか。
三番目の姿勢は、書き手が現実に明確な向かい方をする意志をもっていないとできない。現在、その意志をもつ中身すらなくなっているのではないだろうかと思っている。
どの姿勢が良い書き方ということはない。時代で主流になる書き方が違ってくることはある。書き手を現実と言葉の世界への向かい方が見えない枠で囲ってしまうようなものだ。
現在は一番目と二番目の姿勢で書かれることが多い。それは、時代とそこを生きるわたしたちの望みの持てる大きさと関係があるように思う。