少年の死の白さ
嘆く声でできあがる時の断面
時を終点まで飛ぶことが目的なら
ひとの生の意味は
どんなに明確だろう
少女の手のソフトクリーム
老いた背から透かし見るこころ
死者をおおう結晶
ここまで書いて、わたしは立ち止まった。もちろん、紙の上での話である。
そのまま書き続けることはできる。それは次回書こうと思う。
少年の死、生の意味、季節の白、このまま書くと、生のかなしみ、わたしなりに考える生の意味、その生のなかで感じる死とその後の意味を書くのだろうーーこれは、あくまでわたしが今想像していることで、実際にはどう書くかは、書いてみないとわからないことだ。
芭蕉は、実際に書いた時と、全く違う季節に変えて発表した作品がいくつもある。
季語を変えることで季節が変わる俳句では、季節を変えるのはまだ易しいかもしれない。下手なわたしの俳句でも、これは春にしてしまえ、と春にすることがある。
しかし、詩の表現する世界を変えることは難しい。かなしみの詩をよろこびの詩に書き変えることはまだ簡単だと思う。
言葉が掴んだか掴みきれたかわからない世界を表現した詩や、明確に最初から最後までひとつの心の情景を表現した詩は、全く別の作品にするのは難しい。
島崎藤村の詩は書き変えるにはそんなに困難でない。立原道造の詩もそうである。しかし、中原中也の詩は困難である。言葉の下に作者が残した肉体の感じがある。
この違いが何によるか、何を示しているかはわからないが、そこには、わたしたちが知性で把握できない何かが言葉を通して表れているように思う。
詩が咽喉からこぼれる、と書いたが、そうでないのはどこからか、口からか、それを考えるのは無意味ではないように思う。
次回は、最初にあげたわたし自身の詩の書きかけを全く違う世界に仕上げることで試してみようと思う。