私の生きかた



『白黒つけない


Gray に生きる。』




Gray=灰じゃない。


中途半端ってことでもない。


白でも黒でもないところにいて、


物事を見据えているっていうこと。




客観の主観。


社会の中の私。


私は私。



あなたのものじゃない、


だれのものでもない私。




だから、

どこへでもいける。


なんだってできる。



そう。



人生は一人旅。



Grayの特権。



自由。




昔からそうしてきたじゃない。


ひょうひょうと、生きてきたじゃない。



考えて、考えて、感覚で、直感で、そうしてきたじゃない。




今、就活という岐路に立たされていて、私は焦っていたのだろう。




絵を描こう。文をつづろう。就活しよう。塾も行こう。起業にも関わろう。本を読もう。勉強もしよう。旅をしよう。バイトもやめない。




私を生きよう。





うちで飼ってるコッピー(淡水魚)が一匹、土曜にお星様になりました。


様子の変化に気づいたのは、金曜日。


いつも白銀に光っているはずのコッピーなのに、一匹だけ、下に沈んでて、体は真っ黒でした。


他の4匹は、なにもなかったように泳いでるのに、一匹だけ、違う世界にいるように、もう暗黒の世界に住んでいるかのように、砂に体を寄り添わせて静かに息をひそめていました。


それを見た瞬間、私は頭が真っ白になりました。


どうしよう、どうしよう どうしよう・・・・・・・・!!!



ひれは一応動いているし、まだ生きていることは分かったので、すぐに水を小さい器に移し変えて、隔離しました。


そのコッピーちゃんは、からだが曲がっていて、体のバランスがとれてませんでした。

泳ごうとも、バランスがとれないから、斜めに泳ぐしかない。とはいっても、ほとんどまったく泳いではいなかったけれど。。





いつからこんな風になってたの?


もう、見ているのも辛かった。





次の日、バイトに行こうと思い、器をのぞいたら・・・


体をくの字に折りたたんだカッコウで、お星様になっていました。





まえ、コナンで見たことがある。


死ぬと、死後硬直により体が曲がるんだよ って。



じゃあさ、金曜日に曲がってたのは、もう死後硬直がはじまっていたってこと??


死と生の間を生きてたってこと??


体に異常が起きて曲がってただけなのかなぁ。


へんなの。へんなの。


死ぬと生きるって、隣り合わせどころか、かぶっているのかもしれないよ。

そうかもしれないね。







その後、静かに、うちのアパートにある木の下に埋めました。





こっぴーちゃん




他の仲間は、元気だよ。


えさをあげたあとも、下に沈んだ餌を食べようと、頭を砂に近づけながら探しているくらい、元気だよ。


でもたまにね、その光景が、


どこかへ行ってしまった君を探してるようにも見えるんだ。











どうか、天国でも元気でいてください。





秋になると、私は眠くて眠くて仕方ない病にかかります。


一日10時間は当たり前。


バイトはいかなきゃいけないから、おのずと学校をサボりがちになります。


って、今期は5コマしかないから、あまりやすまないけど☆


あたしはニートか!!


ってかんじっす。


思えば、小学校時代から、私は遅刻魔であり、そして授業中寝てばかりいました。


中学になって、ちゃんとしなくちゃやばい!と思い、ちゃんとしてたけど、なんとか学校を早退し、なんとか部活を休めないか!!と、必死に考えていた記憶が在ります。


はい、私は根っからのめんどくさがりやです。



なんのためにがんばってるんだ?


って思ったら最後。



だから、なんとか奮い立たせていままできました。


そんな私も21歳。


就職したら、エぶりデイ 愛 増すと 号 トゥー 感パにー とぅー 和悪。



やっぱフリーターって魅力的だよなあ。


とかいって!


小心者のあたしは、たぶん必ず就職するでしょう。



がんばれ、じぶん、 まけるな、じぶん!



紅葉が、きれいですね~

ながらくブログを放置していました。

すみません。


色々と思うところがあり、UPできないでいました。ちょっとながいですが、読んでいただけたら嬉しいです。


学祭の様子をUPします♪




かわいい子どもたちと



RaMuse



うふ



粘土



ポストカードとか




学祭は、とても楽しかったです☆

ただ、今回は、考えさせられることが起こりました。



閉店間際に、私のブースを見ていた人に、絵本を売ってほしいといきなりいわれました。


この絵本は、あくまでも展示品だったし、

スケッチブックに原画をコピーしたものを貼っただけだった。


え、どうしよう!!売ることなんてまったく考えてなかった私は、めっちゃキョドった。


でも、私は、瞬時に、お金をとらなければならないものだと判断して、

思わず1500円でどうですか?


といった。


お金をとることを一瞬ためらったが、

これは売り物ですか?って、開店中に言われたこともあったし、私にとって、この絵本は思いいれがあるものだから、値段をつけた。



お客さんは、

いくらでもいいので、ほしいです!!と言ってくれた。


嬉しかった。


ものすごい興奮した。


1500円をもらったとき、絵本を手放す寂しさとともに、得体のしれない高揚感に襲われた。



でも、良く考えたら、200円くらいのスケッチブックにコピーを貼っただけなのに、1500円って、どんだけ高いんだ!!


友達にも、1500円は高いよ!!って言われた。


そうだよな・・あたしはなんて傲慢で貪欲な人なんだ。って後悔した。


そのうえ、元彼にそのはなしをしたら、お金をとるってこと自体、信じられないね!!と言われた。

素人が作ったものをほしいと言ってくれる人に感謝して、どうぞもらってあげてください!ってくらいの姿勢じゃなくちゃだめだよ。と。



でも、作品は、価値をつけなくてはいけないものだと思うし、価値は自分と相手の合意でなりたつものだとおもっている。


仮に私がそのときに、ただで譲ったら、お客さんは逆に戸惑うだろうし、私の絵本を価値のないものと思うかもしれない。


ただで譲ることは、やさしさでも感謝の意でもなんでもなく、芸術家としての最低な行為だと思う。


作品にお金を払わないでもらうことによって、世の中の作品というものの概念が崩される危険もはらんでいるのだ。


ただにするほど、だれか作者じゃない人が価値を決めるほど、素人の作品は価値がないというのか?



作品って、なんだろう。


自然とでてくる排泄物とは違う。

自分をただ表に表現するだけではない。


それなら、ただの自己満足。



自分と向き合ったり、考えたり、時間をかけたり、納得したり、憂いたり、激怒したり・・・


素人なりにも、下手なりにも、自分と作品の間の関係は見えているはず。


だからこそ、価値を判断するのは、やはり作者自身。



買い手がその値段に不満を覚えるならば、きっと、そこまでなのだ。


作者は、自分と作品の価値を下げてはいけないし、あげてもいけない。


その点は、頑固じゃなくてはならないと思う。




私がもし、あの絵本を800円で売っていたなら、いまでも後悔していただろう。


ただで譲っていたら、それこそ、自分の子どもを盗まれたような錯覚に陥るでしょう。


それほど、私は、あのスケッチブックにコピーをはっただけの絵本に愛着を持っていたし、価値を見出していた。


やはり、800円でも2000円でもなく、1500円の作品なのだ。




駄作ほど、作者との結びつきは強い。


いまの私には、自分の作品すべてが駄作であり、そして、特別なのだ。




このことがきっかけで、作品の価値について考えさせられた。


と同時に、作品を生む怖さも知った。


これから私はどこまでいけるだろう。


駄作を通り越して、傑作を残せるだろうか。。



これは作品だけじゃない。生きかたもそうだし、商売もそう。



とにかく、学祭であまった粘土をどうしようかが今後の課題だ。笑

学祭一日目終了。



とりぜず、すんごいねむい。



おやすみなさい。