帰省する新幹線の中で、思うことがあって、合唱歴を少し振り返ってみた。
そのうえ、今年は帰省しても私だけなので、墓参り以外は比較的静かなのと、
台風が来襲しておりとにかく何も出来ないので、今一度これまでの合唱生活を振り返ってみようと思い、
既にFacebookで記載した内容をもとに、久しぶりにブログをいじってみようと思いました。
てなわけで、私の合唱歴を一気にまとめてみました。
<その1:黎明期(高校時代)>
・1980年5月 それまでバレーボール一筋だった私は、当時の顧問の先生が中学の学年主任だったこともあり、強烈なお誘いを受け、
高校の男声合唱部(音楽班)に入部。ここから、私の合唱おやじ(オタク?)への道がスタート。
・1983年2月の卒業まで、トレーニングをまともに受けないまま、男声合唱をそれなりに経験する。
・当時は崇徳グリーや広島女学院高校音楽部など、活動が活発な高校合唱団がたくさんあったが、
私自身はまじめに取り組んだが、団としてはさほど・・・というのが実情。
・ただ、この活動がきっかけで女学院高校音楽部の方と知り合い、友人や後輩ができたり、
広大グリーの先輩とのちに運命的な出逢いをすることになり、など、運命的な出逢いのきっかけができる。
さらに先輩方に恵まれたのか、合唱を本格的にやりたいという欲求が満たされなかったのか、
「大学に入ったら、男声合唱が本格的にやってみたい」と思うようになったところで卒業を迎える。
<その2:合唱オタク創成期(大学時代)>
・1983年4月 立命館大学メンネルコール入団。大人数の男声合唱に何となく憧れていたが、この4年間が、その後の合唱生活に
大きな影響を与える出逢いと別れを繰り返すことになろうとは…。
・1984年:自分たちの大学合唱以外の経験がしてみたい、という思いから、立命館大学メンネルコールの練習日以外に行ける
一般合唱団、との理由で、今は亡き(こう書かなければいけないことは今でも辛いです…。)大学の先輩に誘われ、
京都の老舗、京都男声合唱団に所属することに。京都男声合唱団で出逢った人たちは、平均年齢が比較的高く、
今でいうところの「壮年合唱団」的な感じではあったものの、数名が学生合唱団から私と同じように
練習に来ている人もいた。実は当時の京都府合唱連盟の大先生方とは、この合唱団きっかけでかわいがっていただいた。
(今は浅井先生のみご存命なのであるが、本当に寂しい・・・)
当時の京都男声合唱団の指揮者は、故・佐々木日出夫先生。入団当時は連盟参与のお立場だった。先生には、所属していた3年間で、
男声合唱団の何たるか、を教えていただいたように思う。若手だった私たちにも、ベテラン同様に接していただき、特に飲み会の席では、
普段は学生どころか社会人でも行かない店に連れていっていただき、酒席の心構えも教えていただいた。
(余談ではあるが、当時の練習会場は佐々木先生が住職をおつとめだった宝蓮寺。そこで忘年会を行った際、当時の
京都府合唱連盟理事長の故・吉村信良先生がゲストでやってこられ、親交をあたためたことが一番印象的であり、
京都男声に入ってよかったなあ、と感じた瞬間だった。吉村先生に顔を覚えられたことで、京都の連盟に図体のでかい眼鏡をかけた
丸い奴が立命メンネルと京都男声にいる、と広まり、今でも京都で歌うことに違和感がないのは、このことが多分に影響しているものと
思われる。ただし、当時の立命メンネルと京都男声には、図体のでかい眼鏡をかけた丸い奴は2人存在した。当時の皆さまには、
「背の高いほうが私、背の低いほうがF」と覚えていただいた。)
今では京都男声も大きくなり、私自身も大阪在住で平日に練習に参加できないため、復帰できそうにもないが、心のふるさとの
ひとつであることに変わりがない。
・京都会館とザ・シンフォニーホールで定期演奏会を行った最後の世代であると言われているのと同時に、
いわゆる「コンポ3番世代」の最高学年でもある。それは第4回OB会チャリティーコンサートや、11月に開かれる第1回OB明立でも
パワーを発揮するきっかけとなっている。また、私の世代は、「小泉ひろし」さんを客演に2度定期演奏会に迎えた世代でもある。
その時に歌った「エレミア哀歌(T.Tallis)」「さすらう若人の歌(G.Mahler)」は、いまでも私の合唱感を支える重要なエキスとなっている。
・フェアウェルコンサートで、初めて後輩女性(当時のチケフレ)から花束をいただいたことで「大学で合唱をやっていてよかった」と
感じる一シーンであったことは、今でも記憶に残っている。
<その3:迷走期(社会人:愛知県在住時代)>
・1987年3月 卒団~大学卒業~愛知県に新入社員として移住することになる。一時的に合唱難民となってしまう。
・1987年9月 愛知県在住の知り合いを通じて、男声合唱団「響」入団。パワー重視の合唱を続けてきたが、その時に運命的出逢いが…。
・愛知県在住時に、今は亡き(と書かなければいけないのが辛い…)大学の先輩が活動されていたある混声合唱団に、
「ワンステージメンバーとして「柳河」「富士山」などの多田武彦先生作品を歌え!」と半ば強制的に?誘われた。
しかも、本番当日、本番会場に向かったところ、目ざとい当時の指揮者から「世良くん、テノールが弱いのでぜひとも助けてほしい。
急だけど、このステージ(ディズニー合唱曲集)なら動きもさほどないし、歌えるやろ?普段着で出られるステージだし出てくれんか?」
とこれまた半ば強制的に?言われ、ワンステージ出演前のステージにもぶっつけ初見リハーサルからの本番出演という、今では全く
考えられない(当時でも普通ではあり得なかったが…)展開に…。何とか迷惑掛けない程度に歌えたが、打ち上げでどっと疲れが出て
飲み過ぎたことを今でも覚えています。
その時の経験から、練習に臨む時の姿勢が「毎日が勝負!初見でも音取りでも音楽創る!」という私なりのコンセプトに
つながり、「音とりでもいい音楽を創りたい」という今の歌う姿勢が出来上がったように思います。
・1991年?月 「響」で客演していただいた大野憲一先生のお誘いで、安城第九から発展した安城市民合唱団に入団。そこでいきなり
渉外マネと同時に、団内指揮者を急遽兼任することになり、第1回演奏会の記念すべき指揮者の一人としてステージ指揮デビューを
果たしました。振り方に余裕がなかったことをよく覚えています。
<その4:合唱おやじ確立期(再び関西へ)>
・1993年9月 転勤に伴い、安城市民合唱団を離れ、「響」も幽霊団員となり、再び合唱難民と化す。
・1994年2月 長岡混声合唱団コールポップスという平均年齢の比較的(当時は)高い合唱団に入団。入団一週間後に本番に乗るという
離れ業を演じる。ここではチーフステマネや指揮者も経験し、何と言っても、現在の嫁と出逢ったのがここ(笑)。
(Facebookに書かなかった裏話・・・コールポップスに出会う前は、京都エコーで浅井先生のもとで歌いたいという欲望が一時期
芽生えたことがある。練習見学に行こうとしたが、最終的に練習会場がわからず、断念した。もしこの時に京都エコー入団、
なんてことがあったら、人生まるっきり変わっていたように思う。嫁とも出逢うことはなかったし・・・(笑))
・一方、会社近くでたまたま歌える場所を見つけて見学に行った合唱団があった。ところが、オペラなど大きな合唱曲を歌うのがメインらしく、
当時の私には全く合わず、一日だけ伺って、それ以降訪問する事がなかった。実は、そんな場所で、一昨年に形を変えてご一緒する
機会が…。焦ったのは言うまでもないが、私も周囲も全く気付かず。(笑)
・しばらくコールポップスメインで活動していたものの、転勤や出向、大阪転居などもあり、また現役の活動などを見るにつけ、
徐々に活動そのものに違和感を感じてきたのも事実。2017年9月より休団し、現在に至るが、多分このまま戻る事にはならないと思われる。
(平均年齢が上がりっぱなし、やりたい合唱と現状の合唱団のコンセプトが合わなくなってきた事も理由のひとつ。)
<その5:合唱リハビリ~再度合唱オタクへの成長期(メジャーシーンへの復帰)>
・コールポップスへの参加に違和感を感じていたころ、合唱生活30年を機に、新たな世界を経験したいと思い、
2009年7月 パナソニック合唱団に入団。ここで合唱リハビリを決意する事となる。
・コールポップスでは経験出来ない合唱コネクションや曲との出逢いは、自分に合っていると直感。
・入団翌週にステージに乗る荒業(申し訳なかったなぁ…。)を演じ、翌年にはパート移動と同時に定演部スタッフ入り。
他の合唱団でもパート移動を決意し、トップテノールには戻らない宣言を勝手にしてしまう(笑)。
・2014年より定演部長としてリハビリにも磨きがかかると同時に、SNSを通じて仲良くなった人達と出逢いや再会を果たす。
・2019年で入団10年。加齢とともに衰えも感じつつあるが、「もっと上手くなりたい」欲望だけは持ち続けていたいと感じている。
<番外:メンネルOB会とのかかわり>
・卒団後は愛知県在住となってしまったため、OB会活動も限定的だったが、帰阪と同時にOB会活動に加わる。
(愛知県時代は東海支部活動に少し入っていたことはあるが、ダンディライオンズ結成時は既に帰阪していました)
・体調のことや家のことなどもあって、出席したり欠席したりを繰り返していたが、知らない間に、「お前は歌えるメンバーなんだから
OB合唱団ができたときには必ず来いよ!」という各所からの無言の圧力を背に、立命館大学メンネルコールOB合唱団
(旧 京都メンネルコール)の主要メンバーとして活動。
・廣瀬量平作品の録音事業あたりから、従来のTopからセカンドテノールに移動。多分トップのメロディーとしては使えない
状況だったからではないかと思われる。時を同じくして、パナソニック合唱団でもテノールからベース(ハイバリトン)へ移動。
それを契機に、開き直った私は、録音事業終了後もセカンドに固定。現在でもセカンドテノールで柔らかい発声、
パワーに頼らない発声(昔の自分では考えられないが)を追求中。高声部に若干苦労はしているものの(昔では考えられないが)、
何とか軸にはなっていると自分では思っている。
・OB会主催のチャリティーコンサートには5回とも皆勤しているが、プラハでの招待演奏には家庭の事情で同行せず。
・現在は第1回明立OB交歓演奏会の広報担当として、合唱コネクションをフル活用して宣伝活動にあたっている(つもり)。
・更に、気付いたらOB会の副会長になっていた…。現役の一番しんどい時の副会長としては、無力感は否めないのではあるが、
「我々の故郷は身を呈してでも、OB会の総力を結集してでも守らなければならない」との一心で、今は出来る範囲で活動を見守りつつ、
支援出来る範囲で実行部隊に加わっている状況。
(現役が元気な時の干渉ではなく、現役が消えそうな時のOBの全面バックアップです。)
後期はスタートが勝負。メンネルコール現役に多大なるご支援を賜りますように!お願い申し上げます。
今年、合唱生活40年。
記念になる行事もあり、本当にしっかりしないとなぁ…。技術面もますます…。運営面も…。
そんなこんなで、長文本当に失礼しました。