日本体育大学に入学しレスリング部に所属。【全日本学生選手権】【全日本大学グレコローマン選手権】で優勝。
全日本選手権優勝後、学生時代に数々のレスリングの実績を残しエリートとして、1992年新日本プロレスに入団。


1995年10.9…新日本プロレスの伝説の興行といわれる【東京ドーム・新日本プロレスとUインターとの全面対抗戦】で、桜庭・金原を相手に勝利をし評価を上げる。


1999年に中西と組んで、初めてIWGPのタッグチャンピオンになる。意外と遅咲きである。


2001年【G1 CLIMAX】で武藤を敗って初優勝する。

そのとき永田は、当時、総合格闘技家の最強であった“ミルコ・クロコップ”に宣戦布告する。

これから永田さんに闇が訪れる…

2001年の大晦日、猪木の興行で“ミルコ・クロコップ”と対戦し、ハイキック一撃で秒殺される。

2002年1月4日…NOAHの秋山準が保持するベルトに挑戦するが、敗北。
男泣きした永田さんは、秋山に叱咤される。


2002年4月5日安田忠夫を敗り、初めてIWGPシングルのヘビー級チャンピオンになる。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、防衛する。
永田さんは、ミスターIWGPと呼ばれるようになる。

2003年に空前の格闘技ブームになり、大晦日に【日本テレビ】(イノキボンバイエ)【TBS】(K-1)フジテレビ【PRIDE】で格闘技の放送をする。

大物の格闘家はK-1やPRIDEに出場が決定した為、新日本プロレスの創立者・アントニオ猪木の興行(イノキボンバイエ)に多くの新日本プロレスの選手が参加させられる。

その興行で、最強といわれた“エメリヤーエンコ・ヒョードル”に永田さんは秒殺される。
永田さんは、プロレスのA級戦犯と言われる。

2004年10月に両国大会で長州力が突如乱入し、永田さんに「お前は天下を取り損ねた男」と大観衆の前で揶揄される。


2005年…当時【新闘魂三銃士】といわれた棚橋・中邑・柴田に契約更新で、当時の新日本プロレスの社長であった草間に「第三世代(永田・中西など)に新闘魂三銃士の踏み台になってもらう」と言われたことを永田さんは耳にする。


2007年3月…永田さんブームが訪れる。とにかく、永田の会場人気が凄かった。
その勢いに乗り、4月棚橋を敗ってIWGPヘビー級チャンピオンに返り咲く。

2008年10月両国で、当時、一年間無敗を誇っていた“田中将斗”を敗り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取する。

井上亘等と青義軍を結成する。


2012年9月9日に千葉・東金アリーナで、永田裕志デビュー20周年記念興行を開催する。