私が自分から惚れた男性は、夫しかいない。




あとの殿方は、気がつけばすごく間近にいて、なんだか、ドギマギしてノロノロしてる間に痺れを切らして去って行ったって感じ。





夫は、私にとってずば抜けて何かに秀でていた訳でなく、私に優しかったという訳でもない。
私と言う人間にも全く興味はなかった。
なので、私は何度かフラれている。






なんだろう。惚れるって、なんだろうね。






運命なんだと思う。






夫の父、つまり私にとっての義父は、






私と夫が出会う直前に他界している。







なので、私は会ったことがない。






私は当時、こんなに生と死が近いとは知らなくて、お義父さんがすぐそばにいるなんて思いも寄らなかった。







だから、10年前、東日本大震災の後、私の周りに変化が起こって、

はじめてお義父さんを感じたとき、その姿を認識したときの私の衝撃は、どんなに大きかったか、お分かりだろうか。






会ったことのない人に会うのに、瞬時にしてそれが誰であるのかわかるとは、驚きだった。




いろんなパターンがあると思うけれど、





他界した人は、すぐそばにいる。いつも。






そして、愛する人の幸せを祈っている。







間違いなく。







あなたがもし、誰にもバレないだろうと思って何かのアクションを起こした時、






ちゃんと一部始終は見られている。






だから、嘘はつかない方がいい。


誰かを助けるための方便の嘘ならともかく、保身のための嘘は質が悪く




むしろまだ、生きてるうちにその嘘がバレた方がいい。




そのまま、自分のためだけの嘘が


バレないままで、他界した時、






その罪は大きい。







正しく生きることは、大切。






正しく生きるとは、





自分の良心(自分の内側の神)に対して、正しく生きることである。






人は完璧ではない。







間違いに気づいたら、一刻も早く、自分の良心に正しい道に戻ることである。







全部見られている。


身近に他界した人がいなくても、見えない世界に、全部見られている。
あなたの生き方は、見られている。






そのことをあとで知ったとき、どんなに恥ずかしいか、想像してみればいい。







隠れたくても隠れる場所なんてない。







逆に、何かに誠心誠意向き合ったとき、困難を乗り越えようと最後まで諦めずに臨んだ時、誰かのために尽力したとき、






見えない世界から、しっかりと見てくれている。

本当に見ている。



あなたの隠れた努力を見ている。



あなたの一人流した涙も、苦しみや寂しさに悶えたひとりぼっちの夜も。





全部、あたたかいまなざしが注がれている。






それを忘れてはいけない。








私は私である。
私はあなたでもある。