5日、仕事が終わると博多駅デイトスのレコード店に急いで行き、ジョンの5年ぶりのアルバム「ダブル・ファンタジー」を買った。
10月に「スターティング・オーヴァー」のシングル盤も買った。アルバムに入っているのはわかっていたけど、待ちきれなくて買ったのだった。
アルバムを買って、急いで家に帰り、すぐに聴いた。
5年間も音楽活動をしていなかったのでさびしくてたまらなかった。
そんな5年間は「ロックンロール」のアルバムをよく聴いていた。
ジョンの新しい曲を聴けるのは本当に本当に嬉しかった。
これからだと思った。日本でコンサートをやるという噂もあって、ワクワクしていた。
「ダブル・ファンタジー」のアルバムはジョンの曲とヨーコの曲が交互に入っていた。
申し訳ないけど、ヨーコさんの歌は聴きたくなかった。
レコードなので、針を上げて次の溝で下してという作業をしなければならない。
すぐにカセットテープにジョンの曲だけまとめて入れて、カセットテープで聴くことにした。
6日も仕事が終わるとまっすぐ家に帰って「ダブル・ファンタジー」を聴いた。
7日も仕事が終わるとまっすぐ家に帰って「ダブル・ファンタジー」を聴いた。
8日も仕事が終わるとまっすぐ家に帰って「ダブル・ファンタジー」を聴いた。
9日は忘年会だった。帰りは遅くなって、12時頃家に帰った。
テレビもラジオも何も見ないで聞かないで眠った。
そんな何でもない普通に過ごしていたこの日のお昼頃にジョンは亡くなっていたのだった。
10日、朝6時45分に家を出て駅に向かう。
新聞もテレビも見なかった。
両親も知っているだろうに何も言わなかった。
朝、会社に着いて、先輩が「びっくりしたろ?」「えっ?知らんと?」
ジョン・レノンのことって言うから、私はジョンが日本でコンサートやるんだと思った。
「いいニュースですか?」と聞くと、悪いニュースだと先輩は言ったけど、何も教えてくれなかった。
私の前の席の男性の方が、「おはよう。びっくりしたねぇ。ジョン・レノンが撃たれたねぇ。」
と言った。
意味がわからなかった。
何かの間違いだと思った。
その年の12月も冷たい風が吹いていた。
博多駅のキヨスクの週刊誌の表紙はジョンの写真でいっぱいだった。
今までジョンの曲なんてかけてくれなかったくせに、その日からラジオはジョンの特集ばかりしていた。
その年に着ていた白いコートやその年につけていたオーデコロンの香り、冷たい風、キヨスクの週刊誌のジョンの写真、そんなものがひとまとめになって毎年必ず12月になると思い出す。
今まで「ハッピークリスマス」なんて街どころかラジオでさえかからなかったジョンのクリスマスソングはそれ以来よく聞かれるようになった。
1972年にシングル盤が発売されて、毎年私は聞いてたけど。
ジョン・レノンの命日は8日だけど、私は8日は普通に家に帰って「ダブル・ファンタジー」を聴いて眠っている。
9日も何も知らなかった。
私にとってのジョンの命日は8日ではなくて、日本時間の9日でもなくて、10日なのだ。



