ひとり言に耳を傾けたら.....

ひとり言に耳を傾けたら.....

ひとり言セラピーのセラピスト。
神社、自然(特に巨木)、古民家が大好き❤

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久しぶりのブログです!

秋めいてきたな〜と思っていたら、暑さがぶり返して厳しい日が続いてますが、私は季節の中で秋が一番好きです❤️

そして活動的になります。

そんな初秋の9月28日(土)、ひとり言セラピーのセラピスト仲間 加藤由季子さんと、ひとり言セラピーのカフェ会を開催します。

題して
迷走家と妄想家と共に瞑想について考える



今回のテーマは、私の体験から生まれました。

昔、瞑想をしている時、頭のおしゃべりがうるさくて「無」になれませんでした。

頭のおしゃべり

(ひとり言セラピーでは頭のおしゃべりはひとり言(脳内言語)としてセッションの時は大切に深掘りしていきます)

いやいや、そんなこと知ってるよ!
それより、瞑想中の頭のおしゃべりをなくして「無 」になる方法教えてよって思いますよね。
わかります!私もそうでしたから(笑)
が、




すみません🙇‍♀️ 
答えを知りません

オイオイ、なんだよっ(・ε・ˇ)ちぇっ!
と思った方
そんな方に興味津々の私です(笑)

人それぞれ捉え方の違いによって、思いも人それぞれ。

今回はひとり言セラピーのカフェ会に哲学対話の方式を取り入れ、対話を楽しみながら瞑想とひとり言の関係性を糸口に、いろいろと一緒に考えてみませんか。
そして、自分なりの何かに気付いていけたらいいなと思っています。

瞑想ができないと思っている方
瞑想に興味がある方
いや、瞑想は出来るよ!という方も
またひとり言セラピーに興味のある方
なんかわからないけど面白そうと思った方
ぜひ!お待ちしております😃

『どうして哲学対話とコラボしたいと思ったのか』

哲学対話とは、7つのルールにのっとって自由に対話をしていくこと。

私が体験したのは

考えるとはどういうことか
0歳から100歳までの哲学入門

という本の著者、梶谷真司先生の哲学対話。

出版されたのが、私がちょうど自由に何でも話せる安心・安全な場ってないんじゃないかな〜と思っていた時でした。

「哲学って何ですか?」という私ですが、ぐぐぐっと興味を持ちました。

先生の哲学対話に参加して、
「何をはなしてもいい」
という事はもちろん一番大切なのですが、
私は、それよりも答えを探さないということに衝撃を受けました。
統一した答えはない!

たぶん、答えがないことに不安を感じるという方は多いのではないかと思います。
もちろん私もそうでした。
なので、「なぜ?」と思うより先に、答えをすぐ探して安心しようとしてました。というより、それが当たり前すぎて、気付いていませんでした。

私の場合は、それが、人の話を受け入れない=聴けないということへ繋がってたのか〜と納得してしまいました。

答えを探さない

はじめは向かう方向がわからないので、不安定な状態に感じましたが、不安定であることで、

ちゃんと話を聴き、自分の考えと相容れない場合は、反論するのではなく、問いという形で詳しく聴く、また、自分の思いを話し、同じように問われ考える。

そのように対話していくうちに…

不安定だからこそ、
「こんな考え方もあるのか!」と自分の価値観に新たな選択肢が加わったり、「あれ?みんなそう思ってないの?」と衝撃を受け自分の考えを修正出来ちゃったりと、自分の価値観を知った上で選択し直すことも出来るということに気が付いたりしました。

また、それぞれ環境や年齢の異なる方々が、違う価値観や視点で自由に話すことで、さらに思考が深く広がっていきました。

そして、思ったのは、
本当の意味で考えることをしていないし、今までもしてこなかったのではないかということ。
自由に考えることは楽しいことなんだということでした。

私は、対話することで、
モヤモヤしていたことが一瞬であっ!と形になったり、思いがけない人生のヒントを得たりすることが、たくさんありました。

もちろん、モヤモヤのままお持ち帰りすることもありましたが、それですら答えがないので自由。それも楽しみの一つでした。

さらに、対話の中で、自分の常識を超えた新しい風が吹き、自分の妄想で自分がかってに苦しんでることに気付けるきっかけをも頂き、また、その妄想を選択するかしないかの自由が自分にあることも知りました。
「問題なんてなかったのか〜」
と笑ってしまったことも多々あります。

何をいってもいい自由さ、そして答えのない不安定さを楽しみながら考えることが出来る場は、本当に安心・安全な場のように感じます。ただ、そういう場はほとんどないのが現実です。

肩書きなんか取っ払って、そんな対話を楽しみたい!そのために今回コラボしてみたいという私の思いを叶えちゃいました。

どうぞよろしくお願いしますビックリマーク



昨日は、母が入所している施設の夏祭りに行ってきました。

施設のご利用者の方とその家族のために、スタッフの方、地元の方、学生のボランティアの方が楽しい時間を提供してくれました。

色々なコーナーの中で選んだのは「アロマオイルでハンドマッサージ」

スタッフの方がラベンダーのアロマオイルを使って、肘から指先まで丁寧にマッサージしてくれます。皆さん「ありがたい、ありがたい」と嬉しそにマッサージを受けてらっしゃいました。

母の番がきました。



が・・・、アロマオイルを付けた途端に終了。
オイルを手で拭き始めました。


ベタベタが嫌だったのかな?

スタッフの方は、母をよく知ってるので、すぐに対応を変更して無理矢理マッサージするのを辞め、母と一緒にベタベタを楽しむように腕についたオイルを手で拭き始めました(結果マッサージですがニヤニヤ

私も一緒に拭きました。「ベタベタだよね〜」とスタッフさんが笑って言ったら、母がスタッフさんの指のオイルを丁寧に拭い出しました。
ただ見ただけだと母がハンドマッサージをしてあげてるようでした。
「ありがとうね〜」のスタッフの言葉に母は笑顔を返していました。

その様子を見て、シワくちゃでシミだらけ、張りが全くない細い母の手をこんなにもじっくりと見たこともなければ、丁寧に撫でたこともなかったな~。
こんなだったんだね~と熱いものと一緒に感謝が込みあげてきました。

母が認知症になってから、

あらゆ記憶がなくなってる母
言ったことを覚えられない母
言葉での会話が出来ない母
歩くのが遅い母
介護を受けないとならない母

など、自分と比べて出来ないことにばかり目を向けて母の価値を決めていたのかもしれない。

認知症である母は欠陥のある人間だと

ここ最近になって、認知症になっても心は全く変わってないんだろうな〜という想いが強くなってきています。

以前の母とは変わってしまったけれど、人としても母としてもずっと変わらない価値を持っている

なのに、認知症になってから、存在そのものの価値を無条件に受け入れて、愛を持って母と向きあっていたかというと、違うように思います。

人間的に劣ってると頭の片隅に思いながら、母と娘の立場を逆転させて介護していたなと。

誰もが人としての価値は変わらない
そのままで素晴らしい!
母と娘の立場は、産んでくれた時から変わらない。

介護は姉と一緒にしてきました。
認知症の症状が進んでいく途中、母としてのプライドはいつまでも残ってました。
「娘の世話になりたくない」という母の強い思いは、母を意固地にさせ、何度も激しくぶつかりました。

それは、娘の私達の

「出来ないんだからしょうがないじゃない!出来てないことを認めてよ!」

という言葉の中に、

「母らしいことはもう出来ないんだから、母というプライドを捨て娘の言うことに従え!あなたは人間として欠陥があるんだよ!」

というメッセージに感じていたのかもしれない。

「出来ない事があっても、母として、人としての価値は変わらない」
はずなのに・・・
このメッセージを伝えることは、あの頃の私達姉妹には出来ませんでした。

それどころか、

母に苛立ち
出来ない母を小馬鹿にし
強い口調で命令したり
姉と母の世話のなすりあいをしたり
かと思えばすごい罪悪感を感じて押し潰されそうになったり・・・

そんな私達に、物忘れ外来の先生、ケアマネさん、ヘルパーさん、親戚のおじさん、近所の母の親友など母を知ってる方から、
認知症の情報や母の状況を教えてもらい、助言をもらったりして、

「介護してる家族は、自分が優しく介護出来ないことの罪悪感に襲われる時がある。でも、どんな状態でもあなたの人としての価値はけっして変わらないよ!
だから出来なくても大丈夫!そのためにプロがいるんだから!誰もあなたを責めることは出来ない!だらか自分を責めないで!」

というメッセージを頂きました。

それは、母に対しても同じだ!
と今頃気付きました滝汗

 
私達がしなきゃいけない介護は、プロの介護士さんとは違うけど

お母さんは認知症になっても、お母さんとしての、そして人としての価値は変わらないよ!
というメッセージを伝える事

 なんだと思いました。

そんなことを、施設の屋上で戸田の花火を鑑賞しながら、姉と再確認しました。
隣で花火を見てる母を見ながら・・・

って・・・
寝てるんかい!ポーン

いい意味で期待を裏切って笑いをくれる母が好き❤です。

まだまだ、母と意思疏通出来ないことに
キーヽ(`Д´)ノ
となってしまうことがありますが、

常にこの思いに立ち戻れる介護をしていきたいと思いました。
そして、常識の枠から出て母の素晴らしいところに目を向けていこうと思います

(お母さんとおねーちゃん 施設の屋上にて)

今朝、関西で大きな地震がありました。
これ以上被害がひろがりませんように・・・

3.11の地震の時、「九死に一生」の体験を
しました。

その頃の私は、日々

ご飯、なに作ればいいんだよ~
子供に規則正しい生活をさせなきゃ
将来の為にお金をやりくりしなくちゃ
(夫に対して)自由にあそんでやがって・・・
(会社の)あいつ、超むかつく
自由に一人で旅行に行きた~い

そんなことばかり、ほぼ一日中考えてま
した。

3.11のその日は、夜勤だったので午後から
寝室で寝ていました。地震が起きる直前、
トイレに起きて、子供が学校から帰ってくる
からとリビングのソファに移動したその時、
地震が発生しました。
急いでリビングに移動して
暴れるテレビを押さえながら、様子を見てい
ると寝室のほうから

バタンッ!

と大きな音がしました。
なんと、160cmある本棚が私の寝ていた布団
に倒れていたのです。
それもちょうど頭の位置。
そのまま寝ていたら・・・

死が自分にもあるということを、ありありと
実感しました。

そんな時、思ったのは

「小笠原諸島に行っとかないと」

とか

「小島屋さんの特上の鰻を食べとかなくちゃ」

ではなく

「死にたくない、生きたい!」

そして、

「大切な人と一緒にいたい」

ただただシンプルにそれだけでした。

それは、頭で考えて出てくるものではなく、
心の奥底から沸き上がってくるものでした。

これって

今生きてること
大切な人がそばにいること
それだけで幸せ

ってことなんだと思います。

難しいことではなく
今すぐにでも感じることができるのに
わすれちゃうんです。
当たり前すぎて・・・

そして、大切な人とは、地震などがあったとき
「大丈夫かな」と思う前に、
とっさに思い出す人なんだな~と思います。

今日は自分の奥にあるシンプルで一番大事な
「ひとり言(思い)」を思い出しました。

その思い、もうすでに叶ってることもね