西原理恵子『パーマネント野ばら』新潮文庫、2009年

西原理恵子の作品では、ギャグ(クールに突き放した距離感)と抒情性(心情的な密着感)がさまざまな配合でブレンドされている。『パーマネント野ばら』は抒情性がまさったタイプの作品であり、西原理恵子の抒情の形とは何かがクリアに示されているところが興味深い。

主人公のなおこは、小さな娘をつれて田舎の実家の母の元に身を寄せている。
パワフルな母は一人で美容室「パーマネント野ばら」をきりもりして、そこは近所の老女やなおこの友人らが集う女だけのたまり場になっている。

女たちは年老いて下品で醜く、そしてパワフルで、いつも男に恋し、男に逃げられ、男を追いかけている。
なおこは、そんな女たちのサークルにつつまれ癒される。そんな物語。

示唆的なのは、なおこだけが現実世界の男ではなく幻想世界の男に恋をしているということ。
その男は、死んだ祖父のような、いなくなってしまった父のような、あいまいな年上の男であり、その男と一緒にいるなおこは、大人の男に手を引かれる童女として描かれる。

『パーマネント野ばら』が描く至福の恋は、子どもの無防備さと孤独と、それを保護して包み込む大人との融合的な関係をモデルにしている。子どもは女というジェンダーをまとい、大人は男というジェンダーを与えられている。

しかし、至福の時は常に短く、裏切られて失われ、あるいは、そもそも幻想でしかない。保護者のはずだった男もまた一人の子どもでしかなく、結局、男はどこにもいない。無防備で孤独な子どもたち(女たち)は、子供たちだけで集い、喪失の苦さを笑いにくるんで分かち合う。

これが『パーマネント野ばら』の抒情の構造である。
いわばそれは、失われたパターナリズムへの悲哀と哀悼といえよう。

なぜ、この「保護への希求」をあきらめることができないのか。
やっかいなことに、登場人物たちは皆、「保護への希求」が幻想であることを自覚しつつ、しかしその自覚を「なかったこと」にして、どこまでも幻想にすがり、追い続けていく。

西原理恵子の作品の容赦ない力は、この幻想と妄想に対するしようもない執着のあり様を執拗なまでに描き続けることにある。

『パーマネント野ばら』で私が胸を打たれたのは、厚化粧の老婆が恋をし、男をホテルに連れ込み、ベッドのなかで余韻にひたるとき、老婆は野原で家族の背中にもたれてうたたねした子どもの自分に帰ってしまう、という場面だった。

最も脆弱な者である子供が保護されるときに味わう至福。
(その至福はいつも記憶や幻想のなかにしか存在しない)
それが「女の幸せ」である。
(だから幸せは現実世界のどこにもない)

う~ん。