.......私は、私は、幼い頃より、音楽(ミュージック♬)という環境の元で、育って来ました。幼い頃から今(現在)に至ります。私にとって音楽(ミュージック♬)というカテゴリーとは、”SOUL & SPIRITS”であり、切っても切れない関係であり、私の人生や身体の一部となっています。何故ならば、色んな方とコミュニケーションを行う際も、1人でカフェで一服している時にも、それ以外の場合にも、色んな場面で私達は、音楽(ミュージック♬)という未知のパワーと運命共同体であり、その不思議なパワーの元で、我々世界中の人達は勇気つけられ魂、力(パワー)をもらう事が人生において多々あるはずです。DJ☆96porice♬は、そこからのスタート地点になっています。今回は、その幼い頃から今(現在)に至るまでの人生の半生のSTORYを綴らせて頂きました。では、続きをどうぞ…。
この瞬間!この生命は、誕生した!つまり私の事です。(昭和50年(1975年)11月05日生まれ)私は生まれました。この家の長男として誕生しました。まさか40代になったらDJを目指すなんて事は、自身も全く予想もついてません。この時DJ☆96porice♬、48年前の出来事でした。
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この頃といえば、私はもちろん赤ちゃんに近いくらいの子どもで、父、母もお互いにまだ若く、働き盛りでした。うちも決して家計は豊かではなかったので、父、母は共働きでした。うちの家族は当時は、貧しい団地暮らしでした。そんな暮らしの中でも、私も幼いなりにすくすくと成長して行く訳です。当時、その頃の番組といえば、"ピンポンパン"だったり、"ひらけポンキッキーズ"だったり、子ども向けの番組を親は良く見せてくれました。その番組のSoundがジャカジャカ流れていたのを幼い頃なりに記憶にあります。私には、約5歳離れた姉がいます。良く姉は幼い時、TVの前で子ども向けの番組のSoundが流れるとリズムに合わせて良く踊っていた記憶があります。私は弟ながら、姉がTVの前で踊っていた姿を見て、とても上手に思えてました。私の幼い頃は、その番組を見てすくすく成長して行くのでありました。
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私は幼い頃は、とても病弱でしたので、両親は大変苦労したのではないでしょうか?(今、、、思えば、、、、笑。)共働きだった両親のうち、母は姉と私の事をあやしながら、家事、炊事をやりつつ近所に買い物をし、会社で仕事をやっていました。とにかく、うちは当時は、バタバタでした。
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今から思えば、その頃から私の心の奥底で、音楽(ミュージック♬)というものを意識していたのかもしれません。私は将来、音楽(ミュージック♬)の道に進みたいという心の現れの中で、潜在意識として生まれ育ったのかもしれません。
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私が幼稚園通う頃は、良く園児達と先生で、お外でオルガン弾いて、音楽(ミュージック♬)を伴奏してフォーク・ダンスしていました。今考えてみたら、私はその頃くらいから、音楽(ミュージック♬)というものに対して非常に興味を持っていたのかもしれません。そうなる前までは、リズム感、感性、センス等が、DNAに組み込まれてはいたとは思いますが、まだまだ音楽(ミュージック♬)に対して目覚めてなかったかもしれません。私は当時から、フォーク・ダンスを真面目に踊るタイプじゃなかったので、、、、、、、笑。
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私はやがて小学生となり、父と初めて魚釣りに挑戦したくて、横須賀の走水海岸まで車で行く時と帰りにカーオーディオのラジオから流れてる音楽(ミュージック♬)が、今でも忘れられないくらいの心地いいSoundでした。その時、カーオーディオのラジオから流れた音楽(ミュージック♬)は、確か洋楽だったような気がします。ちなみに、魚釣りの釣果は、デビュー戦にしてはなかなかの物でした。釣った魚は、ハゼ、コチでした。とても楽しい魚釣りが出来たので、良かったです。カーオーディオのラジオから流れた音楽(ミュージック♬)、洋楽は誰の曲だったかは覚えていませんが、ホントに心地いいSoundでした。記憶に残ってます。
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当時、小学生の頃のアニメの流行りと言えば、"北斗の拳"です。"ユア、シャー"でお馴染みの、"クリスタルキング"の"愛を取り戻せ!"が生徒の間で大流行しました。周りの生徒達も上半身裸になって、"アッ、タタタタタター、アター。お前はもう、、、、、、死んでいる。"とか、生徒達は良く真似していました。(懐かしいですね、、、、、ホント。)
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当時、小学生低学年だった頃、私は"スター・ウォーズ 帝国の逆襲"が観たくて、親に無理くり頼み込んで横浜に映画を観に、街に繰り出した思い出があります。"ハリソン・フォード"が、まだ若かりし頃の作品です。映画のSoundもサイコーでした。
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〜 数年後 〜
私がやがて小学6年生になって、生徒達がカセットテープに録音した音楽(ミュージック♬)のベスト盤を学校に持って来ては、良く休み時間に学校の教室にあるカセットデッキで、音楽(ミュージック♬)を流していました。その頃流行りの曲は"Michael Jackson"の"Thriller"と、"Bad"でした。当時この曲を流しては、生徒達は"Michael Jackson"の踊りを踊ってました。
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私は幼い頃より、精神疾患を患っていましたが、当時実家で暮らしていた私は、親と何かにつけては親子喧嘩が絶えませんでした。ほぼ毎日喧嘩していたと言っても過言ではないくらいの頻度でした。当時の親の私に対しての思いとしては、これは私のあくまで憶測ですが、「どうして、うちの息子に限ってこんな病に、、、、。」と思っていたに違いありません。もちろん、その頃から家庭は既に崩壊していました。
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幼い頃から私の姉は、私とは真逆で、小学校の頃から殆どと言っていいほど学校の成績が優秀でした。私は全くそれと真逆でどんなにやっても落ちこぼれ(いつも)でした。よって姉と比べて私はパッとしないので、家庭の中でも孤立していました。
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私は正直幼い頃より、常に心の中は色んな葛藤がありました。何故ならば、家庭崩壊、学校内でのイジメ、精神疾患という3つの悩みに常に悩まされながら学生時代を送っていました。姉に私の悩みを話ししてみても、人ごと程度にしか聞いてくれないし、親に話しても話しを大げさにするし、結局、自身に悩みを留めておくしかなく、そんな感じで学生時代を送って来ました。そんな当時でも、唯一私の中で救いだった事が、TVや、ラジオから流れている音楽(ミュージック♬)を聴く事でした。どんなに身体や、心がやられてもTVや、ラジオから流れている音楽(ミュージック♬)を聴く事によって、どんなにやな事があっても、心と身体が慰めになりましたし、大変心が癒されました。イジメにより心の悩みは一時的にありますが、音楽(ミュージック♬)を聴く事でやな事を忘れる事が出来ました。学生時代のイジメは、だんだんエスカレートしていき、私もさすがに限界で、親に正直に話して小学校を行かない時期もありました。
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私もやがて中学生になりました。当時、流行ったアニメと言えば、"City Hunter"でした。そのアニメのエンディングに流れている"TMネットワーク"の"Get Wild"が大流行して中学生達も、良く唄ってました。
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私が中学生の頃は、当時流行りの映画としては、"ぼくらの七日間戦争"で、その映画のエンディングの曲で採用された曲は、"TMネットワーク"の"Seven Days War"でした。
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私が、中学生の頃の流行りのアニメと言えば、"ドラゴンボール"で、オープニングの曲の"摩訶不思議アドベンチャー"でした。
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私が中学生の頃は、特にこれと言って好きなアーティストさんがいる訳ではなかったのですが、だけど何も考えずに音楽(ミュージック♬)を聴いていると、そのアーティストさんが非常に格好良く思えました。色んな音楽(ミュージック♬)を聴いているとたちまち私は心が元気にになり、気付いたらリズムに合わせて踊ってました。
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中学生後半くらいから本格的に音楽(ミュージック♬)に興味を持ち始めて来ました。当時から、音楽(ミュージック♬)自体はあまり詳しくありませんでしたが、ノリのいい感じの曲だったり、格好良い曲が流れて来たら、良く調べてCD屋に行って買っていました。
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〜 数年後 〜
私もやがて、いつの間にやら花の高校生になっていました。姉ほどいい学校には通う事は出来ませんでしたが、私の場合は頭悪かったのでいっぱいいっぱいでした。それくらい私の頭は悪かった訳です。当時は、流行ったアーティストさんは、"BOOWY"、"T-BLAN"、"WANS"、"B'z"とかが主に流行り学生達に人気でした。洋楽は、一際輝いたのが、"New Kids On The Block"の"Step By Step"でした。
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私が高校生の頃は、身体もすっかり健康になって、部活動で水泳をやり始めました。おかげ様で、身体も鍛えていたので、ミルミルうちに筋肉モリモリのスポーツマンになって、学生時代の中で、一番輝いた時代だったと思えました。
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まだまだ、高校生の頃は人気のあるアーティストさんとしては、"TRF"の"Ez Do Dance"が流行ってました。元"TMネットワーク"の小室さんがプロデュースするアーティストさんの曲は、当時は外れる事がありませんでした。怒涛の勢いでCDが売れましたね。私も、元々"TMネットワーク"のファンだったので。
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私が高校生の頃、当時の洋楽の大流行と言えば、"BON JOVI"、"GUNS"、"Van Halen"でした。(ホント懐かしいですね、、、、、笑。)
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当時の洋楽は、”Van Halen”の、”JUMP”を良く聴いてました。
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高校生活をしていた当時、バラードの曲も結構聴いてました。特に当時は、”谷村新司”の、”いい日、旅立ち”とかです。高校生でしたが、バラードも結構聴いてました。
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私が高校3年生の時は、”B’z”の”RUN”が大流行していました。とてもカッコいい曲だったので、良く繰り返し聴いてました。スローテンポのロックですが、ノリがいい感じの曲ですょ。(とにかくカッコいい曲ですょ、、、ホント。)当時から、”B’z”の”稲葉さん”と、”松本さん”は、高校生の憧れでしたょ。(ホントに、、、、。)
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やがて私は、高校生活を無事卒業し、進路が決まるかと思いきや、浪人生になりました。浪人の頃は、勉強全くそっちの毛で遊んでばかりいました。”親に予備校で遅くなる。”と言っては、悪仲間とつるんでは、ディスコに遊びに行ったりしていました。ディスコに通っていたおかげで、色んなカッコいい音楽(ミュージック♬)と出会う事となるのです。まさに、DJ☆96porice♬の始まりの源泉と言っても過言ではないと思いました。
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〜 1年後 〜
私は、某専門学校に入学し、二年間勉強しましたが、何せ頭が悪いので、卒業するのがギリギリでした。学生生活をしていた当時は、巷は、”オウム真理教”の”地下鉄サリン事件”とかがあり、東京のみならず全国で大騒ぎでした。そんな時代でも音楽(ミュージック♬)は、絶えませんでした。その頃に、流行った曲は、”SPEED”の、”BODY & SOUL”です。当時、可愛らしい女の子4人組がDanceしながら、唄っている様は、新鮮でした。
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私が当時、20代前半の頃は、”JURIANA TOKYO”、”MAHARAJA”、”Velfarre”とかの大型ディスコが大流行しました。巷の社会人や、OL、女性達は、週末になると仲間を求めて良く通っていたのではないでしょうか?
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当時は、”Techno”、”House”、”EUROBEAT”とかのジャンルの曲が大流行しました。
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20代前半の頃は、”浜崎あゆみ”が大流行しました。中でも、”M”、”Boys & Girls”、”Blue Bird”が良かったです。
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20歳前半の頃は、”EXILE”の”Choo Choo Train”が大流行しました。かつて、”ZOO”が唄っていたカバーとしてリリースしました。
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私が、25歳の頃は、”K POP”が盛んに大流行していました。女性では、”BoA”、”KARA”、”少女時代”、”2NE1”、”SISTAR”でした。男性では、”東方神起”、”K”でした。その他、数々のアーティストさん達が活躍していました。
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私が、25歳の頃は、”宇多田ヒカル”の、”Autmatic”が世に排出し、その曲を聴いた私は当時、”Michael Jackson”の、”Thriller”を聴いた時くらいに衝撃が走りました。当時、全国の人々が衝撃を受けた曲なだけに、大流行し、CDの売り上げもミリオンセラーになりました。(ホントに、名曲です、、、、懐かしいです。)
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私もこう見えても、メンタルは他の人よりも決して強くありません。(正直言って、、、、、汗。)私は、20代後半の頃、”安室奈美恵”のリリース曲の”Can You Celebrate ?”という曲があり、その曲を聴いてはっきり言って涙が止まりませんでした。何という素晴らしい!曲だろうと、今でも感動を覚えています。この曲の意味としては、”私を祝福してくれますか?”って意味だろうと思いますが、その曲を聴くたびに力(Power)を何度貰った事か、同時に涙が止まりませんでした。(サイコー、、、ホント。)
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当時この曲が大流行していた時の日本経済と言えば、不景気ではありましたが、今(現在)ほどではありませんでした。当時は、”小室ファミリー”だけでなく、色々なアーティストが排出された時代だったのではないでしょうか。
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私は只でさえ、精神疾患を患っている身体であるのに実家に私一人取り残されるなんてと、当時は感じました。私の心の中は毎日悩みで一杯でした。色々悩みに悩み抜いた挙げ句の答えが、”一人暮らしをしたい。”でした。
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私の姉も段々大人になっていきますが、子供達に対する親の支配が長い間続きました。(私は、正直精神的に限界を超えてましたょ。
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私の心の中は正に、Maxの状態で葛藤が絶えない毎日でした。私の心の中は常に戦闘状態でした。
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当時から私も姉も、実家暮らしの時は、親の前だけでは利口な振りをしていました。そんな状態の生活を約10年以上送って来ました。正直、私はこんな生活から早く抜け出したいと思いました。
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姉はやがて結婚を機に実家を出て行き現在の旦那と暮らしています。(弟ながら、上手くやったなぁって思うばかりでした。)
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私が実家を出て、一人暮らしをした時の話しですが、その前の日の夜の話しですが、我が家はいつも通り喧嘩が絶えませんでした。、、、でも、今日の喧嘩はいつもの喧嘩とちょっと違う感じがしたので、私はこれはちょっとやばいと思い悪い予感がすると思いました。しかしその時、私は賭けに出ました。思い切って反撃に出ました。親はいつものように私を下らない事でぐちゃぐちゃ私の事を叱り、抑えつけようとしましたが、その隙を狙って反発しました。それが吉と出て、実家を出られる様になりました。遂に、夢にまで見た一人暮らしです。
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結局、一人暮らしをする際も、不動産廻りとかも、親が一緒に付き合ってくれました。不動産屋さんに交渉とかもしてくれました。(お父さん、お母さん、ホントありがとうm(_ _)m。)
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今ならば、親に感謝してますし、当時の親も私が精神疾患を患っている身体である事を親なりに考えあって行った行動なので、親を恨んでもいないですし、むしろ感謝してます。親は、子供が精神疾患を患っている事に大変苦しんでいたんだと私はそのように解釈してます。
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〜 数年後 〜
気付いたら30代になってました、、、。早いものですね、年月が経つのは、とても、、、笑。三十路前半に付き合っていた彼女がいたのですが、私は真剣に彼女とお付き合いしていたのですが、お互いに仕事やら、何やらで、色々忙しかったのが原因で、すれ違いが絶えなくなり、交際は自然消滅しました。しかし、私の中では、破局に関しては、あまり未練が無かったので、引きずる原因にはなりませんでした。その頃私は、貯金で買った”東芝”の”DynaBook”を使っていました。当時は、”Windows 7”でした。PCのHDDに、”i Tunes”のアプリをダウンロードして、良く音楽CDを、データ化していました。
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私が30代前半になると、”SMAP”の、”世界に一つだけの花”が大流行しました。ちなみに、この曲の作家は、”マッキー”事、”槇原敬之”です。
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〜 数年後 〜
早いものですね、気付いたら私はもう34歳になってました。ある日の事です。某駅にぶらり途中下車の旅をして、某街のストリートを散歩していました。ふと、あるお店が目に止まりました。そのお店には、色々な可愛らしいアメリカン雑貨が沢山陳列されておりました。私は、大変気に入ったので、何気なくそのお店に入ったら、そしたら、60代くらいの男性の方が、このお店のオーナーさんでした。オーナーさんと少しお話しをして、コーヒーを一杯頼んで、一服しました。とても落ち着くお店だったし、オーナーさんとの会話が楽しくて、また来たくなりました。気付いたら、このお店に通うようになってました、とても落ち着いたオシャレな空間に楽しい会話と美味しいコーヒーです。通わない理由がありません。このお店は、アメリカン雑貨を売る傍ら、カフェと、お酒と、ライブハウスを兼ねた造りになっていたらしいです。オーナーさんは、若い頃は、某大型アーティストのバンドマンをやっていた事もあるほどの、芸能通のレジェンドだったらしいです。そのオーナーさんの名前は、”Nさん”としておきます。
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この方との出会いが私の人生を大きく変える事になるとは、まだ知るよしもありませんでした。一体誰が、そのような人生を予想出来たでしょうか?
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そのお店のオーナーさんには自分が、精神疾患を患っていた事を正直に話しました、いずれ何かの拍子でバレる時が来ると予想した私は、だったら前持って話ししたほうがいいかな?って感じで話しました。それで、差別されれば、縁が無かったと思って諦めればいいと思いながら、それでもオーナーさんは私の事を馬鹿にしませんでした。大変嬉しかったです。だからそのオーナーさんについて行こうと思いました。
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私もお店でオーナーさんと温かいコーヒーを飲みながら、楽しい会話して、カフェタイムが通う事の楽しみでした。今思えば、当時は、毎日が夢のような楽しい日々でした。
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〜 数ヶ月後 〜
私は、相変わらずお店に通う毎日でした。ある日、オーナーさんが私に言いました。”うちのお店で、イベント企画しているから、君、そんなに音楽(ミュージック♬)詳しいなら、うちで、DJやってみなょ”って言う一言がきっかけでした。最初は、私も恐かったから、一回は丁重に断ったのですが、そしたらオーナーさんが、こう言いました。”うちのお店の客に文句言う人々はいないから大丈夫だょ”って、だから私も恐る恐るものは試しのつもりで、当たって砕けろ!で、イベントの当日、おかげ様で、DJやらせて頂きました。お客様が、私が流している曲で、踊ってくれるので、私も気分が上がり、ノリノリでした。おかげ様で、イベントは大成功で終わりました。(オーナーさん、ありがとうm(_ _)mございます。ホント、感謝。)
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私もお店でオーナーさんと温かいコーヒーを飲みながら、楽しい会話して、カフェタイムが通う事の楽しみでした。今思えば、当時は、毎日が夢のような楽しい日々でした。
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私の心の中は、もういたたまれなくなり、思わずDJやってみようかなあってなりました。もう私の心の中は、DJで一杯でした。おかげでDJは、私の心を、鷲掴みです。
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