ここ最近、人生について考えることを放棄していた。結局、人生について考えるとは、自分がどのような姿でありたいのかということを考えることであり、どのような状況が自分にとって幸福であるかということにもつながる。例えばそれが、例え高収入のIT社長であったり、薄給で激務をこなす官僚であっても、本人にとってそれが幸福であるならばそれが望ましい自己実現の結果であると言える。と、考えたときに自分にとっての幸福状態とはどのような結果を迎えた時のものであろうか?この一年半大学生をやってきて気がついたのが、少なくともアカデミックな世界にいることが幸福状態であるとは思えなかった。所詮自分は、学問はあくまで”お勉強”のままでありつづけ、高尚な”学問”というものに馴染むことができなかった。というのも、知的探究心というものを勿論持ち合わせているものの、自分の状態を他者との相対的な関係の中で考えてしまうきらいがあり、どうやらそういう性分であるようなので一人で自立し、行く末の見えない世界を突き進むことなどできないと感じた。となった時に、自分はどうなりたいのであろうか?結局、私も大半と人々と同様に、高収入を維持し、家庭を築き、慎ましやかに幸福を感じるのが理想ではないか?これは私が気難しく生きることを放棄し、刹那的な享楽に耽けるようになった際に得た結論である。しかし、幾分か私には一般の人より知的好奇心を持ち合わせているように思える。そのため、その知的好奇心を活かせる職業に就き、”オタク気質”と言われる専門性の高い一面を生かしたライフワークを行なっていければと思う。ただ、ここで欠けるのが”公共”の視点である。このようなめちゃくちゃ薄っぺらい人生観を人に語ると、相当specificで夢を語れてないだの、現実を見過ぎだの、ノブレスオブリージュとしての義務を果たさないのか(noblesse obligeとか調子乗んなと僕は言いたいですが)といった反論を時に言われます。確かにそうです。そうなんです。何か残したい。自分の努力を社会に還元したい。というどこかある種傲慢な考えに陥るのです。しかし、そうするためには能力が必要です。専門知識は勿論のこと、人を惹きつける能力、他者に対する寛容さやプロ意識など、要求されます。どのような形態ならば本当の理想状況に近づけるのであろうか、どのような能力が対応するのか、僕にはわかりません。残念なことに”自己の刹那的な享楽”を実現するために精進しなければならないのか?非常に残念です。

 

 

 

 

という感じで詰んでしまったので、オーストラリアに渡航し、少しでも矮小な私の視野、価値判断能力が少しでも改善され、何かきっかけとなる”刺激”を獲得できればと思いました。稚拙な文章でしたが兎に角オーストラリアに渡航し1週間経ち、自己の思考を振り返って今日は筆を置きます。