(です・ます調)
みなさんは、「辻井伸之」という人をご存じでしょうか。
1988年生まれの男性で、職業はピアニストです。
辻井さんは目が見えません。先天的な病気のため、生まれたときから全盲です。
「盲目のピアニスト」として知られていますが、目が見えるとか見えないとか関係なく、すばらしい才能を持ったピアニストです。
また、純粋で素朴な人柄から多くのファンに愛されています。
辻井さんは、この世のすべてを言葉で学びました。
目が見えないので耳から学ぶしかない。
お父さん、お母さん、そしてまわりの人たち。
いろんな人からいろんなことを言葉で教わってきました。
それは辻井さんが4歳のときです。
辻井少年は、はじめて「色」というものを教わりました。
お母さんが言います。
「あのね、伸之。世の中には様々な色があるのよ。たとえば空は青、ポストは赤、バナナは黄色。ものにはすべて色がついていて、とってもきれいなのよ」
そう教わってから、辻井少年の心は一気に色づきました。
ある春の日。辻井少年は川沿いの道を歩いていました。
お母さんと手をつないで仲良くお散歩です。
ふたりで歩いていると、前からさわやかな風が吹いてきました。
気持ちのいい春の風にふれ、辻井少年は思わず言いました。
「ねぇ、お母さん。今日の風は、なに色?」
お母さんは立ち止まり、となりにいる、わが子を見つめます。
にこにこしながら、全身で風を感じている、わが子を。
辻井少年の中では、風に色がついているのです。
みどりの風やピンクの風が、心の中で吹いているのです。
「今日の風は、どんな色をしているんだろう?」
さわやかな春の風をうけ、ふとそう思ったのでしょう。
辻井さんは視力と引きかえに、すてきな感性を身につけていました。
やがて辻井少年は大人になり、プロのピアニストになりました。
表舞台に立つと、マスコミから様々なインタビューを受けます。
ときには失礼な質問をしてくる人も。
「もし目が見えるようになったら、なにか見たいものはありますか?」
辻井さんは全盲です。一生、目が見えません。
それを知ってか知らないでか、そんな無神経な質問をする記者もいます。
しかし辻井さんは、そんなことはまったく気にしません。
自分の見たいものを素直に答えます。
「そうですねぇ、両親の顔と、友達の顔と、あと星が見てみたいです」
言ったあと、ちょっとだけ間をおいて、もう一言。
「でも今は、心の目で見ていますから、じゅうぶん満足しています」
辻井さんには見えているのです。両親の顔も、友達の顔も、満天の星空も。
心の中で、イメージの中で、そのすべてが見えている。
もしかすると、わたしたちが知っている星空より、もっともっときれいな星空を、辻井さんは見ているのかもしれません。
見えないからこそ、見えるものを。