今日、母の食べてるお弁当で(手をつけていない場所ね)を、お昼ご飯食べてない友に、ゆづるさんくれるよって言った私。
母は、どーぞどーぞ、どれがいい?と言う。
友は、大丈夫、お腹空いてないと断る。
その光景を見て、
私にとって、食べ物をもらう事は、仲良くなる手段であり、甘える方法としてしてる事を、はっきりと感じた。
いや、感じてた事を、また感じた、が正しい。
ただ、食べたいってだけの時も、あるよ。
母が、どーぞどーぞと言う光景を見て、私は、
とても嬉しく、私の大切な人たちに優しくしてくれるのを見るのは、イコール私に優しくしてもらっているように感じる。
また、食べ物を分け与えるとゆう行為が、食べ物イコール愛情みたいに感じてる。
私の愛をどーぞどーぞ、わーい、ありがとう✨
ありがとうと言い、受け取った方も、ありがとうイコール愛情で。
愛情の交換?みたいな?
なんじゃそれ、だけど。オーバーにゆうと、私は、こう感じてる事が多い。
例えば、いらなかった、受け取らなかったとしても、たいがい、ありがと、いらないよ。と言う。
これもまた、ありがとうイコール愛情と見るので、愛情の交換みたいに見える。
これも、オーバーにゆうと、だけど。
また、私は、母であろうが、大嫌いな人であろうが、複数の人といる場で、誰か1人でも、会話に入れていない空間が、とても苦手。そうゆう場を見るのが苦手。
私自身が、そうゆう集団でいるなかのひとりぼっちが、とても寂しくて悲しい。
だから、私以外の人も、本人が寂しく感じていないかもしれないのに、私は、そうゆう場を見るのも苦手。
そうゆう時、食べ物のシェアは、私は昔から、使っていた私の技法なのかもしれない。
また、父や母とのコミュニケーションの中で。
幼児期から、私が、親の食べ物を欲しがると、父も母も、笑顔になった。
だから、子どもの時から、私の好きなものを親のお皿から、こっそり取って、にこっとしてみたり(ばれてはいる、いや、ばれるようにやってた)。
食べ物が欲しくない時も、笑顔が欲しくて、食べ物をねだったことも多々。
この記憶の方が多いくらい。
どれもこれも、私の行動のチョイスや考え方が、赤ちゃんともち、の個性通り。
テキストか!ゆうくらいに。
幼かった頃、私は、産まれもった個性を駆使し、みんなで笑顔でいれるように、頑張ってたんだなーと思う。
産まれもった個性は、自分の中の当たり前な事だから、頑張ってるつもりもなかったなぁ。と。
今は、娘や母と違う個性だと知ったから、シチュエーションんにはよるだろうけど、私ほど、ひとりぼっちが寂しくない人だとわかった。
食べ物のシェア、ひとつ見ても、いろんな事を思う。
そして、、、
最近、母ネタばかりだ。
私の頭に母の容量が増えているんだな。
書いてて飽きてきた。
読んでる方は、もっと飽きてきたかもですよね、すいません😱
頭の中の母の量、調整しながら、また、自分をしっかり見つめていきます。
こんな私が、何をしている人かといえば。
こんな事をしております。
つきのひかり、気になる方は、ホームページみてみてね。
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自分を知る事は、時に、しんどく感じる事がある
私自身、今も、見つめていて、偉そうに説教たれる事はできないし、するつもりもない。
ただ、自分を見つめてるからこそ、一緒に、お話をきき、寄り添うことはできる。
お客様と一緒に、楽になれたらいいなと思っています