エピソード1では、私の周りの人たちが、私からどう見えていたか、がメインでした。

今回は、その環境から、私がどんな風に感じていたのか、また、赤ちゃんともちで学んだ、それぞれの個性の特徴から、私が何を感じるのかを書いていこうと思います。

祖父、祖母の、赤ちゃんともちは、まだ調べていません。
父→アース
母→サン
兄二人→サン
わたし→ムーン
です。

私はムーン。
私の個性、まわりを見るとゆう特徴があります。
今、学んだからわかる事ですが、産まれもったこの目で見る個性。だから、より、周りの人の表情を見るとゆうチョイスをしたのだろうと思います。

幼少期、私が何かをする時、母の、祖母の、父の表情を見る。
相手の感情が動きそうな表情をしたら、すぐやめる。なんて事をしていました。
それが、平和に生きていくための、私のすべでした。

父は、感情が動くと、顔つきが、ぴたっと止まります。
そして、しばらく、止まったまま。
ここで、いかに逃げるかが大事。
逃げるとゆうのは、その場から逃げるのではなく、私がニコニコして、ご機嫌をとるイメージ。
父が、私を抱いてきたりした時、私は基本、嫌だった。
なぜなら、力が強いから痛い。
だけど、痛いと言えば、表情が変わるから、できるだけ我慢。
ニコニコしておけば、だいたい父は、怒らない。
基本、私に暴力をふるう事はなかったが、父の表情が、怖くて怖くてしかたなかった。
そして、父は、私を愛している、大切だ、などの言葉も発しなかった。
もし怒らせてしまったら、母に怒るので、なおさら、できるかぎり、何もしない。が必要だった。
私は、父に、誰にも怒らないで欲しかった。
父の怒りかたは、表情が固まったら、しばらく時間が止まったかのようになり、そして、急に爆発し、怒鳴る。
物にあたる。だった。
父が年老いて死ぬ前にわかった事だが、こんな父も、お姫様のような母を、彼なりに大切にしていたのだ。
お金の管理や、ややこしい事は父が全部やっていた。
ただ、幼い私は、そんな事知らない。


母は、、、
幼少期の母の笑った顔の記憶がない。
祖母の世話や、家事をしている後ろ姿なら記憶がある。
そして、悲しい顔。
私に、やつあたりをするような事はなかった。
ただ、何かあった時の、洗い物をする音は、ガチャガチャ強くなっていた。
もちろん、私は、そんな時は、近寄らない。
だから、後ろ姿なのかもしれない。
私が、ミスをし、祖母に叱られる母の顔は、ふてくされた表情だった。
ミスとは、何かをこぼしたり、うるさかったりとゆう事。
そりゃそうだわなとは思うが、それは、今思う事であって、当時のわたしは、怒っている祖母も、怒られている母の表情も、どちらも怖かった。

母を守りたいと思っていたが、守ったら、きっと、更に母が叱られる。

私は、なにもしない。
私は、ニコニコし、みんなが笑顔になるよう気をつける。
母と祖母が、仲良くいれるように。
これを、チョイスした。
これもまた、私の産まれもった個性を、最大に使ったチョイスだったのだなぁと思う。


食事も、祖母や、父と一緒に食べる時は、無言ルールがあった。
しゃべっちゃいけない。それが、食事マナーなのだと。
ただ、もくもくと食べる。
それが私の当たり前だった。
今考えたら、一緒が大好きな私の個性を閉じ込める行為だ。
美味しいねって、みんなで言いたいのに、そんな事はありえない。
食事中も、緊張の糸がはっていた。

何十年もたって、わかった事だが、母は、私の世話は、祖母や叔母に言われてやっていたのだそうだ。
とゆうのも、私に娘ができて、離乳食など、わからない事をきくと、おばあちゃんに言われてやってたから、わからないと、、、
えっと。私が、祖母になついた理由は、ここかもしれない。

母は、母でなく、おばあちゃんのとこに来た嫁になっていたのかもしれない。

私は、母に、もっともっと私を見て、私の表情を見て欲しかったのだ。
私が、母にしているように、してほしい、そう思っていた。
けれど、それを感じるのもやめた。
そのかわり、おっぱい触ったり、母の耳たぶなめたりしていた。
あの柔らかさが気持ち良かった。
私の話を、最後まで聞く時間も、余裕もなかったうえに、母のサンとゆう個性。
長い話は聞くのが難しい個性。
それが重なり、私は母に話すのもやめていく。

そんな環境で、祖父や父の帰宅は、家が一気に緊張状態になるので、男たちの存在自体が、好きではなくなった。
いや、嫌いだった。

とはいえ、ずっと苦しかったのかといえば、そうでない記憶もある。
祖母、母と三人で箕面の滝に遊びに行った時は、幸せだったと感情のみ記憶している。
目の悪い祖母の手を母がひき、母の上手じゃないお弁当を、美味しく食べた。
その空気かんが、なんとも幸せだった。
あと、父、私、母の川の字で並んで寝る寝室も、幸せな空間だった。

私が体調崩した時も、私には幸せな時間だった。
母が、おかゆを寝室で食べさせてくれる。
私だけを見てくれる、大切な時間だった。
身体はしんどいが、とても幸せな時間。

また、祖母や父は、誕生日には、シルバニアなどの高価なプレゼントをくれた。
必要な物は買ってもらえたし、友達と遊ぶのに、あのオモチャがないと遊べないと言えば買ってもらえた。
私がいちばん欲しかった、ふれあいや、話を聞くや、私を見るのは、足りなかったが、物質的には、たくさんもらえた。

そんな幼少期、兄たちは、どこに?
だが。
兄たちは、学校を卒業すると家をでた。
そう、兄たちにとっても、居心地の悪い家だったのだ。
幼かった私には記憶はないが、祖母は、上の兄だけ可愛がり、下の兄には厳しかったようだ。
昔ながらの、長男びいきだ。
私は長女なので、びいきされる対象だったが、下の兄からしたら、たまったもんじゃない。
そんな話を私は母から聞かされていた。
これもまた、祖母を嫌いになる理由にもなった。

母が責められる記憶はたくさんあるのに、兄に遊んでもらった記憶はない。
年が離れているから、ほぼ接点がないうえに、学校卒業で家を出たのもあり、記憶がない。

そんな幼少期、私が、辛い感情を、もう一人の自分に任せたと、前回書いたが。
私は、この頃に、インナーチャイルドを作った。
彼女に、任せて生きてきた。
辛い時は、あなたお願いね、私下がるからっ。
それをしたからか、私は、おばちゃんになるまで、花を綺麗だと思えなかった。
嬉しい、美しいなんて感情も、こぼれおちたままになっていた。と、これは、自分を見つめて、最近、気づいた事だが。
このインナーチャイルドは、まだ私の中にいる。
きっと死ぬまで一緒だ。
今、彼女と仲直りの最中である。
彼女もまた、ムーンらしいなぁと思うことがよくある。
これは、また、別の時に、書くことにしよう。

ただ、幼少期に、私は、もう一人の自分を作ったとゆう事実。
これを書きたかった。


そして、10才くらいの時に、
祖父が死んだ。
いや、ちがうな
おじいちゃんが死んだ。
うん、しっくりくる。

おじいちゃんが死んだ。
わたしは、、びっくりするほど、悲しくなかった。
いや、嬉しかった。
おじいちゃんが死んだら、おばあちゃんの世話を、叔父が変わってくれるから引っ越せると聞いていたから。
わーい!わーい!なのだ。
葬式に、私は微笑んでいた。
泣いている祖母の後ろで。

つづきはまた、こんど。

なにやら、まとまりない文書になって、すいません。
こちらもまた、私がかわいそう、な話ではなく、私が選んだ考え方や、行動なのです。
誰かのせいで、こうなったとゆう読み方は、しないでいただきたい。
環境は選べないが、考えや、行動は、
全ては、私が選んだ事なのです。