ある些細な誤解がきっかけで「評価は人が決めるもの」という話がでた。これは現在の企業に勤める感覚としては全くもってその通り。これをはき違えると、退職か窓際が待っている。処世術としては真。しかしへそ曲がりともは、これに対し、非常な違和感を覚える。評価は人が決めるもの。それは半分しか同意できない自分に戸惑う。その前提、他の評価が間違うことなど山ほどある。せめて自分が信じてあげなければ自分がかわいそう。もちろん自信と過信、狂信は紙一重。しかし冷静なる理性で自己を客観的に見つめていけば、信じるべきこととそうでないことは、案外、自分が知っている。



遠く歴史をふり返ってもそう。最近のことを思い起こしてもそう。そんな事例、山ほどある。たとえば、ともの好きな古代ギリシア。そこからガリレイにつながる宇宙観。わかりやすくいうと、天動説と地動説とのせめぎ合い。



中世まで天動説が信じられ、科学革命により近代的宇宙観(すなわち大地がそのものの移動を前提とする地動説)、になったという人は多けれど、それは大きな誤解。少し歴史をひもとけば、すぐに顕在化。他の評価の罠。常識の過ち。



古代ギリシアで一般的に天動説が信じられていたのは事実。それは宗教上の整合性もあるが、結局の所、人の実感にあっていたから。地動説を唱えたのはPhilolaosAristarchos。紀元前5世紀や紀元前4世紀頃のこと。フィロラオスが置いた宇宙の中心は火。ともの思うところ、これも信仰心ある人の感覚に整合性が高い。すべての恵み太陽を世界の中心に置く考えは、胸の奥にしっくりと来る。だからこそ、中世になって新プラトン主義の中央火の考えが、コペルニクスに影響を与え、それが時を経てケプラーやガリレイにつながる。



太陽中心説は人の心に整合するところがあるとはいえ、明確な太陽中心説を唱えたアリスタルコスは神を冒涜したとして処刑の危機に瀕している。



困った知性はアリストテレス、プトレマイオス。彼らの論は実に緻密。説得力に富み、魅力的。ただ惜しむらくは、真実ではない。それでも中世にはかれらの天動説はキリスト教史観の根拠として取り込まれる。キリスト教を学問的に支えるスコラ学の科学的支柱として。これは特にアリストテレス。それでも科学技術の発展とともに彼らの理論にほころびがでる。しかし強固な「常識」は地動説の抹殺を計る。



確かにガリレオ、ガリレイは無邪気でバカで俗物的であったけれど、それでも天文学、力学で彼の残した功績は大。しかし、命を捨てるほどの覚悟では言っていない。命を捨てる覚悟で発言して、実際に火あぶりにあったのは別の人。



「真理におののくのは 裁く君らの方」 (うろおぼえ)

(ブルーノ ジョルダーノ Giordano Bruno 1548-1600/2/17 )


常識、評価、思わぬきっかけで過去へとタイムスリップしてしまったけれど、どうもそれはともの誤解もあったみたいだけれど、いずれにせよ、そろそろタイムリミット。仕事を始める時間。思いをはせるのは、また別の機会にしたい。


とも