コミュニケーションについて 
 :男性、女性、男の娘との会話より

 

 とものブログには女性の方からのコメントは少ない。記憶は定かではないが、以前悲鳴を上げたときに、ナウとメッセで助けの手をさしのべてくれた女性(あの時は、ホントにありがとうございました)、そしてメッセでの質問がいくつか。ブログのコメント欄にコメントをいただいたことは、あまり記憶に残っていない。

 

 記憶にあるかぎり、コメントしてくださったのは、男性か、男の娘。まあ、こんなハチャメチャブログ、見に来てくれる酔狂な方が少ないというだけかもしれない。ただ、どうでもいいことを、いろいろ考えてしまうのが、良くも悪くも、とも。このことについても、ついつい考えてみた。


 直感的に思い至ったこと、それはともが明確な男脳をもっているであろうということ。以前、男脳・女脳の本が流行した。ともも手にとって脳診断をおこなってみた。その診断によると、ともは明確かつ完全な男脳の持ち主であると出た。何年か前のことなので内容は詳細に覚えていない。ただ、軽いショックとともにその事実が明確に頭に残っている。

 

 最近、ゆかっちさんのブログで男脳・オンナ脳の話題があった。非常に興味深い発見だと思った。 (http://ameblo.jp/miniskirt-hirahira/entry-11074707393.html


 女性はボタンを外しながら靴下を脱ぐ。しかし、ゆかっちさんはそれらを個別に行うのだという。彼女によると、それは男女の脳差に起因するのだという。すなわち、身体的に女性性を獲得したとしても、脳の基本的機能は変わらないのだという。

 

 ともは、その話題にコメントした。その時思い起こしたのは、部下達の行動様式である。すなわち、女性はおしゃべりしながらも仕事をするこができる。目障りではあるが、仕事はある程度進行している。一方で男性がおしゃべりをしていた場合、十中八九、仕事はほとんど中断している。

 

 すなわち、女性は複数事項の同時進行が可能であるが、男性は難しい。また、男性が集中する場合、雑音は苦手。おしゃべりする女性が先輩で、注意しにくい場合、耳栓を取り出したり、別の場所で仕事をするケースも多々ある。

 もちろん、複数の仕事、マルチタスクの同時進行は、ある程度レベル以上の社会人では、できて当然。ただ、男性の場合は、一度に行っている仕事は大抵一つ。ただし、一区切りごとに行うので、結果的に同時進行となっているように思える。
 

 ともの短い経験で得た知見。それは、女性との会話で、あまり結論めいたことを口にすると、失敗するケースが少なからずあると言うこと。

 

 途切れる会話、気まずい空気。そう、彼女らは結論を求めてはいない。ただ話を聞いてもらうこと、そして共感してもらうこと、それらを求めていると思える。すなわち、議論のプロセス、そのものが主体なのである。

 

 ともの経験では、断定的・絶対的な結論を出さず、会話を積み重ねることが重要なコミュニケーション。会話に、いたわり、友愛、共感を織り交ぜながら言葉を進めると、驚くほど会話は円滑になる。そして結論は相手の口から引き出す。基本的にこれは幼少の頃から、成人しても、本質的には何も変わらないように思える。

 

 一方、男性の場合は、性急に結論を求める。プロセスなどすっ飛ばして結論を求める。このため、根拠のない結論、思い込みもしばしばで、これも少々辟易している。また基本的に会話は対決姿勢であり、無意識のうちに上下を求めたがる。男性の場合も、多かれ少なかれ、本質に少年性を残しており、時に、小学生かと思うような行動、言動も案外に多い。

 

 年配の男性は、特にやっかいである。失礼ながら、彼らの多くは、普遍的でない根拠に基づく自信に充ち満ちており、視線は常に上から視線。

 

(ごめんなさい。ただの議論です。お気に障ったらホントごめんなさい)。

 

 こちらがへりくだらないと、あからさまにいらだちを表す。同じ組織内であったり、チームとして一つの仕事に取り組む場合は特にかまわない。それはお仕事。大事なことは結果の果実を手に入れること。

 

 困惑するのは、全く関係のない方。その方の組織でその方がどれほどお偉いのかは知らない。しかし、その威光が通じるのはあくまでその方の力のおよぶ範囲のみ。そこを離れては、その威光は全く根拠がない。

 

 すなわち、結果として、根拠のない尊大さのみが鼻につくだけである。年少のものに対して概してそうした態度で接すると、無関係の年少のものはそっぽを向くことも多い。それに対し、最近の若者は言うことを聞かないとして、一方的に断じ、憤ったりする。

 

 彼らはまるでコミュニケーションは、「人」と「人」との関係であるということを失念しているかのよう。ともはできるだけ年少のものに対しても、人としての敬意をもって話すように努力している。はじめは、なめてかかる態度をとる人もいるが、言葉を交わすうち、案外スムーズにコミュニケーションをとれるようになることも少なくない。

 

 もっとも、街や電車など、不特定多数の場ではそうした関わりは極限避けるようにしている。そうした関係を持ちたいと思っていないのが、最大の理由である。それに加え、関係性が薄く、また関係を持つ必要のない個人同士は、肉体的あるいは精神的に、他を傷つけることに対する障壁が、驚くほど低いことも、短い経験ではあるが知っているからである。有り体に言うと、怖いのである。

 

 さて、やや議論が広がりすぎた感もあるので、ブログを通じての対話に話を戻したい。ともはブログを開設して以来、男の娘との会話を、とっても楽しみにしている。彼女らは非常に聡明で、繊細。一方で、実に主張も明確。会話していて非常に心地よいのである。

 

 そして、男性の方との対話も楽しんでいる。ただ、男性の方との対話は、彼らは自覚しているかどうかはわからないが、軽い火花が散っているのを自覚することもある。なぜそうなるのか、それはともの中では非常に明快である。一言で言うと、彼らが男性であるからである。それが男性の特質。トートロジーのようになってしまっているが、この点について論を展開するのは、あえて避けたい。

 

 さて、本題の女性コメントが少ない点、それは彼女らに聞いたわけではない。しかし、ブログのもつ雰囲気が、彼女らにコメントを躊躇させることになっているのかもしれない。彼女らは、ありがたいことにブログまでは、見てくれる。

 そして、ブログ内容によってはペタを残してくれるし、ごく稀にメッセをいただくこともある。(ありがとうございます)

 

 ひょっとすると、とも癖として、ブログ内容にある程度の結論をつけてしまいがちである。そのため、あえてコメントするまでもないのかもしれない。あるいは、コメントしづらくなっているのかもしれない。

 

 いきなり禁則。「である」調と「です ます」調の混在。じつは本文中にも一部。。。

 

 さて、どうでもいい内容について、ついつい駄文を重ねてしまいました。途中であきれてしまった方、すいません。そして、もし、ここまで来てくださった方、いらっしゃったら、ありがとうございます。心から感謝いたします。

 

 文中でもし不快な表現などがありましたら、この場を借りてお詫び申し上げます。(男性脳・女性脳の議論自体、とんでも科学かも? ということは存じた上でのおあそびと思っていただければ。。。)

 

 そして、最後に、この場を借りて、これまでコメントしてくださった方々に、心から謝意を表したいと思います。こんな、ばかげたともですが、今後も是非とも、コメントを頂ければ、ともはとっても嬉しいです。

 そして、女性の方も、是非、コメントを頂けましたら、大変嬉しいです。

 

 つまらない文章。おそまつさまでした。


 あれ!? ここまで書いて、ある疑念が生まれた。
聖徳太子さんって、、、ひょっとして、、、女性脳!? 
ええっ  ((((((ノ゚⊿゚)ノ

そしてひょっとして、ともの敬愛する諸葛亮孔明様も
そういえば龐統さんにも彷彿とさせる記述があったような
ええっ ((((((ノ゚⊿゚)ノ


とも