ここ1、2年私は様々な別れをし、大切な人を、大切な犬や猫を見送った。
舞台から、また一人、さらに一人…と去っていき、一つの時代が私の中で終わった。
楽しく愉快な、私のいつでも味方でいてくれた人がたちまちに居なくなってしまい、広い舞台に取り残された気分がずっとしている。
それでも日常は変わらずに続いていて、何となく奇妙な気分で、でも何もなかった様にしないよう、敢えて色々な事をふと考え、思い出している。
少し前に記事にしたけど、友達に私が好きな岡本太郎や、アラーキーについて聞かれた時にふと、私の中の写真家モードにスイッチが突然入り、そこから毎晩の様にアラーキーの写真集、雑誌を読みあさってる。
因みに何故私はこの二人の男が、好きなのか…簡潔に述べると、二人とも時代に左右されることなく、ブレていないし、なんといっても、二人とも物凄く素敵で女性に優しい紳士だから。
そして、お洒落だから。
他にもまぁ、理由はあるけど、そんなとこかな。
話を少し戻し…、アラーキーはずっと昔に父、母、そして最愛の妻、陽子さんを亡くし、つい最近はアラーキー写真には欠かせない存在で、陽子さんが大切にしていた猫のチロも亡くなった。
そんなチロの写真集『チロ愛死』を買って観てみた。
アラーキーは看取る=見撮ると表現していた。
ガリガリに痩せ、横たわっているチロだけど、目はしっかりアラーキーを見ている。
その目がもう、何とも言えず、涙が溢れて仕方なかった。
興味ある方は是非観てみて欲しい。
きっとどんな動画や言葉より、一撃で伝わる。
アラーキーは写真家だから最愛の妻、陽子さんの死さえも写真に撮って残し、写真集にした。
それについては賛否両論あり、篠山紀信は、お涙ちょうだい的な商売だとアラーキーを批判したというのは有名な話だが…。
自分の大切な人の死を撮る事についてや、自分の母親が亡くなった時には喪主をしていたし、若さから世間の目を気にして、カメラを持たずに葬儀にいた事をひどく後悔
したことなどをアラーキーが語った雑誌を読んだ。
アラーキーもそんな風に悩んだり、気にしたりするんだなと、ちょっと不謹慎だけど愉快だった。
そんな私も、大切な人の死を写真として残す場面がここ最近あったから余計に思うところがあった。
泣きながらシャッターをきるのは、なかなかそうあるものじゃなく、正直ブレたり、露出があってないのもたくさんあった。
迷いながらシャッターをきっているから全然ダメだった。
この経験をするまで、知らなかったが、シャッターをきればきるほど、リアルだった。そして、苦しかった。死が目の前にあった。
これはホントに良い経験をした。
やはり、お涙ちょうだい的な話ではなく、大切な人の死は身近な生活の中にあるリアルだから、リアルな日常を撮るアラーキーには当たり前にある写真なんだなと、私は思った。
私もどちらかというと、綺麗な富士山の風景写真とかより、日常の中にあるものや、人物を撮る方が好みだ。
きっとまた訪れるであろう数々の別れも、立派に見撮る事が出来るように、腕も心も鍛えなきゃいけない。
『遺影』の撮影もたまに頼まれるけど、やはり、こんな便利で開けた時代だけど、最後に自分の存在を遺すのは写真なんだよなぁ。
やはり、写真は深くて、魅力的だと、つくづく思う今日この頃。