殉教は神への愛が試される。
本当の愛があるかどうかだ。
それを乗り越えれば永遠の幸福が得られる。
「殉教が最高の人生」、「滅私奉公が人として最高の生き方」
この考え方を自らの真理として潜在意識に刻み込んだ人(自己犠牲志向者とか殉教志向者と呼ぶ)は、自己犠牲(すなわち自分の何かを犠牲にして相手に尽くす・奉仕する)の伴わない愛に物足りなさを感じる。せっかく本物の愛を神に示せる絶好のチャンスなのにともったいないと思う。後ろめたさや罪悪感を感じる。
自己犠牲志向者は逆に自己犠牲(軽い場合は、自己負担)を実践している場面では本能的感覚のエクスタシーさへ感じる。自分の何かを犠牲にして相手に尽くす・奉仕する、その過程で余裕があってはいけない、自分が楽して誰かに奉仕するなど力を抜いているとしか思えない。もっと奉仕出来るはずだ。もっともっと自分を急かす声が聞こえてくる。奉仕で自分が苦しみ、辛く、不幸になればなるほど不思議なものでこの世のものとは思えないエクスタシーを感じてしまう。なぜだろう?
本当の愛があるかどうかだ。
それを乗り越えれば永遠の幸福が得られる。
「殉教が最高の人生」、「滅私奉公が人として最高の生き方」
この考え方を自らの真理として潜在意識に刻み込んだ人(自己犠牲志向者とか殉教志向者と呼ぶ)は、自己犠牲(すなわち自分の何かを犠牲にして相手に尽くす・奉仕する)の伴わない愛に物足りなさを感じる。せっかく本物の愛を神に示せる絶好のチャンスなのにともったいないと思う。後ろめたさや罪悪感を感じる。
自己犠牲志向者は逆に自己犠牲(軽い場合は、自己負担)を実践している場面では本能的感覚のエクスタシーさへ感じる。自分の何かを犠牲にして相手に尽くす・奉仕する、その過程で余裕があってはいけない、自分が楽して誰かに奉仕するなど力を抜いているとしか思えない。もっと奉仕出来るはずだ。もっともっと自分を急かす声が聞こえてくる。奉仕で自分が苦しみ、辛く、不幸になればなるほど不思議なものでこの世のものとは思えないエクスタシーを感じてしまう。なぜだろう?
永遠の幸福へのチケットと本能的なエクスタシー。これら2つの魅力が自己犠牲志向者・殉教志向者の心を掴んで離さない。辛い思いや苦しい思いに自ら進んで飛び込んでいく、自分で自分を不幸にすることによって得られるこの不思議な感覚には中毒性の甘味さがある。
飢えた人に一枚のパンを恵む為に自分がひもじい思いをするのではモノ足りない。相手に高級ステーキを食べさせる為、自分は植え死すれすれのひもじい思いをするのがエクスタシーを感じる幸福なのだ。
自分の身近な人や大切な人(子供や兄弟や伴侶)に自己犠牲(自らの身を粉にして相手に尽くす)を捧げると同時に、自己犠牲志向者はまた、これら大切な人にも、自己犠牲志向をすべきだと無意識にうちに要求する。
飢えた人に一枚のパンを恵む為に自分がひもじい思いをするのではモノ足りない。相手に高級ステーキを食べさせる為、自分は植え死すれすれのひもじい思いをするのがエクスタシーを感じる幸福なのだ。
自分の身近な人や大切な人(子供や兄弟や伴侶)に自己犠牲(自らの身を粉にして相手に尽くす)を捧げると同時に、自己犠牲志向者はまた、これら大切な人にも、自己犠牲志向をすべきだと無意識にうちに要求する。
自己犠牲を伴わない愛は本物の愛ではないと、もし楽して奉仕しようものなら相手の愛のありかたを非難し、自己犠牲を伴うまで奉仕するように矯正しようとする。自己犠牲が足りない、もっともっとと相手に要求する。
自己犠牲志向者・殉教志向者は、相手にも自己犠牲志向者や殉教志向者になることを求める。結果、自己犠牲志向者や殉教志向者を増やす布教活動をすることになる。布教にためなら殉教しても構わない、そのくらいの気迫で相手に迫り、乗り込む。そう出来ないのは本当の愛ではないと情熱をもってそうする。周りに殉教・自己犠牲の考えに共感する人が増えるのは当然だと思う。真理だから。殉教志向者を増やす段階で、仮に自分が相手から恨まれたり、嫌われたりしても構わない。いつかは相手は目覚める。その時本当のことがわかる。自分に感謝する。今は恨まれ・嫌われても構わない。相手の意識のレベルがそこまで達していないだけだ。むしろ恨まれ・嫌われること自体が自己犠牲であり、自分を犠牲にしても相手には、神の次元で本当の正しい生き方=殉教志向者へと変わっていってほしい。この布教の過程でたとえ自分が命を落とすようなことがあっても、神は自分を「よくやった、おまえは本物の愛の持ち主だ」と祝福してくれる。だから相手の領域に土足で入りこんでも平気だ。当然の権利だと思う。神次元の正しい道に導くためなのだ。それで自分が仕返しの攻撃を受け傷ついても、それは勲章が増えることであり、一つまた神の祝福に近づける。神の真理のため自己犠牲を追い求める者には、神がついている。
自己犠牲志向者・殉教志向者は、相手にも自己犠牲志向者や殉教志向者になることを求める。結果、自己犠牲志向者や殉教志向者を増やす布教活動をすることになる。布教にためなら殉教しても構わない、そのくらいの気迫で相手に迫り、乗り込む。そう出来ないのは本当の愛ではないと情熱をもってそうする。周りに殉教・自己犠牲の考えに共感する人が増えるのは当然だと思う。真理だから。殉教志向者を増やす段階で、仮に自分が相手から恨まれたり、嫌われたりしても構わない。いつかは相手は目覚める。その時本当のことがわかる。自分に感謝する。今は恨まれ・嫌われても構わない。相手の意識のレベルがそこまで達していないだけだ。むしろ恨まれ・嫌われること自体が自己犠牲であり、自分を犠牲にしても相手には、神の次元で本当の正しい生き方=殉教志向者へと変わっていってほしい。この布教の過程でたとえ自分が命を落とすようなことがあっても、神は自分を「よくやった、おまえは本物の愛の持ち主だ」と祝福してくれる。だから相手の領域に土足で入りこんでも平気だ。当然の権利だと思う。神次元の正しい道に導くためなのだ。それで自分が仕返しの攻撃を受け傷ついても、それは勲章が増えることであり、一つまた神の祝福に近づける。神の真理のため自己犠牲を追い求める者には、神がついている。