僕は推理小説とかハードボイルドなど、日本の作家さんの小説を読むのが好きです。今は、渡辺裕之さん(俳優じゃない方です)の『傭兵代理店』シリーズにはまっています。

さて、僕は気に入っている作家の作品は、新作が出たらすぐ読むのですが、それだけじゃなくて、同じ作品を繰り返し読むという読み方も好きなんです。
たとえば、宗田理さんの『ぼくら~』シリーズなんかは中学時代から36歳になった今まで、年に1回はすべてを通しで読んでいますし、大沢在昌さんの『新宿鮫』『アルバイト探偵』シリーズなどはローテーションで読み返しています。

その中で、いつ頃からかインターネットおよび関連技術をストーリーに盛り込んだり、あるいはインターネットそのものをテーマにした作品が増えてきたように感じていて、「あれ、そういえばインターネットの取り上げられ方で小説を見てみるのも面白いんじゃないか」と思うようになりました。

そこで、今日はちょっと趣向を変えて。僕が読んだ小説の中でインターネットが取り上げられている作品と、その作品の時代背景と照らし合わせながら、「インターネットと小説」をテーマに書いてみます。

●未来的な作品
僕がこれまで読んだ中で、印象に残っている未来的な作品の1つは、渡辺浩弐さんの『ブラックアウト』。
BLACK OUT (幻冬舎文庫)/渡辺 浩弐


これはたしか、もともとテレビ番組が先行していて、そのストーリーを小説化した作品です。
(椎名桔平さんと山本未来さんは、その番組の共演がきっかけで結婚したとか)

1996年2月発行なので、時代的にはちょうどWindows 95が出た直後、まだインターネットが一般家庭には普及する前だったかと思います。この作品は、一話読み切り型の構成で、「1999年に人類は……」という仮定の下、毎回のストーリーが進んでいきます。

この中の1つ「アルキメデスの罪<バイオ・コンピュータ・ウイルス>」という章では、当時まだ今ほど注目されていなかったコンピュータウィルスを題材に話が進んでいて、それだけでもけっこうびっくりな内容なのですが、ウィルスの取り上げ方が予想外なところが面白い作品なんです。
具体的には、この中で出てくるウィルスは、デジタルなウィルスではなく、菌類のウィルスになっていて、それがコンピュータネットワークを破壊するというものに。かなり突拍子もないストーリーですよね。

ちなみに、この回に出てくる犯罪者は、「粘菌が持つ細胞間の情報伝達システムを、細胞1つ1つの単体のコンピュータとして考えて自律したネットワークを構築して破壊を行う」という設定になっていて、リアルさとフィクションを絶妙に交ぜた表現だな、というのを今読み返しても感じます。
で、こういう発想でストーリーを作った背景には、ちょうどインターネットが流行りそうで、でもデジタル以外の部分も含めたサイエンスの進化がどうなるか、そのあたりの様子が読めない中、混沌とした雰囲気を表現した結果なんじゃないかな、なんて想像しています:-)

●コンピュータウィルス/ワームの描写がリアル!
ウィルスつながりでもう1作品を紹介します。今度は、コンピュータウィルスをリアルに取り上げた作品、楡周平さんの『クラッシュ』です。
クラッシュ (角川文庫)/楡 周平


これは、『朝倉恭介 - Cの福音』シリーズの1つで、ざっくりと解説すると、旦那に捨てられたスーパープログラマーの妻が、復讐のために、Webブラウザ経由で感染しOSを破壊するコンピュータウィルス(ワーム)の開発と最新鋭旅客機のプログラムの改ざんを行うことで、世界を恐怖に陥れるという内容で、1998年初出の作品です。

この中で、とくに当時の状況をうまく表現しているなと思ったのが、時差を意識した被害の広がり方。
どういうことかというと、1990年代後半当時のインターネットは、常時接続となっている環境が少なく、また今ほど日常生活の夜更かしとインターネットがリンクしていなかったために、インターネット≠24時間という考え方だったように思います。
こうした状況をふまえ、作品の中で被害国となる日本が、時差の関係で最も早くコンピュータウィルスに感染する地域となっていて、それをどう防ぐかというところも話の肝の1つになっているんです。
『クラッシュ』はフィクションでありながら、当時の状況を捉え、起こり得そうな未来を先取りしてうまく表現していた作品なんだなーというのを、2005年とかに読み返したときに感じました。

ここでちょっと豆知識。
ウィルスと時差に関して、実際にあった例としては、2000年に蔓延した「LOVELETTER」と呼ばれるメール添付型ウィルス/ワームが有名です。これは、全世界で4,500万台のコンピュータが被害を受けたと言われていますが、日本はゴールデンウィーク期間中ということもあり、企業・個人のPCがそれほど起動しておらず、日本人がメールを開く機会が少なかったのです。そのため、結果的に被害が最小限に抑えられて、かつ、被害が広がる前のゴールデンウィーク明けには収束していたという、日本にとってホッとするものでした。
(今のような、日常的なインターネット&PC環境、スマートフォン時代ではこうはいかなかったかも)

で、このウィルス/ワームが2000年ということを振り返ってみても、本作品のウィルス描写が1998年12月に行われていたという、楡さんの未来を見ていた視点に驚きです!

ちなみに、最近では、企業はもちろん、家庭でも24時間インターネットに繋がっている状況が当たり前になりつつあるため、インターネット空間の中では、時差という考え方が薄れていると思っています(そのため、コンピュータウィルス被害とその対策も、日々変化し続けていると思います)。

●マフィアものにmixiが!
次の作品を紹介します。

最近のインターネットといえばSNSの存在が欠かせないですが、小説の世界にも普通に登場するようになりました。その中で、僕が最も印象に残っているのが、大沢さんの『ブラックチェンバー』という作品の中での取り上げられ方。
ブラックチェンバー/大沢 在昌


まず、そのセリフを引用してみます。
「極道のスレッドがある。時代だな。ふりをする人間が多いが、中には本物もいて、自分の正体や組がばれない範囲で書き込んでいるようだ。あとはミクシィもある。この場合は、決まった組や同じシノギを扱っている連中が集まっている。……」
『ブラックチェンバー』(角川書店、大沢在昌、2010年3月)p.192より

この作品は、国際犯罪に対して対抗するために作られた地下組織が、犯罪者と戦うというストーリーで、上記のセリフはやくざとマフィアの情報を捜すシーンで言われたものです。
作品が書かれた時期は2008年4月~2009年5月のあいだに連載されていたもので、ちょうど日本ではまだTwitterブームが来る前、まさにmixiを中心としたSNSが、一般ユーザを含め盛り上がってきた時期でもあります。大沢さんは、その世相をキャッチアップして、作品の中に盛り込んでいるわけですね。
まあ、実際にマフィアがmixiを使っているか、といったら「?」マークが付きますがw、昔のマフィア小説の描写としては絶対にあり得ないと思います。

●『池袋ウエストゲートパーク』シリーズや『サマーウォーズ』も
他にも、石田衣良さんの『池袋ウエストゲートパーク』では、主人公の真島誠がケータイはもちろん、PCやインターネットを駆使して情報を集めて事件を解決したり、シリーズ中、ゼロワンと呼ばれる凄腕ハッカーが登場するなど、「インターネット」というテクノロジーがの存在が、作品全体に、良い味付けをしているんじゃないかと。
PRIDE(プライド)―池袋ウエストゲートパーク<10>/石田 衣良


また、小説ではないですが、2009年の大ヒット映画『サマーウォーズ』では、インターネット空間、その中での人と人とのつながりが、ストーリーの大きなポイントにもなっています。
サマーウォーズ [DVD]/神木隆之介,桜庭 ななみ,富司純子


このように、「小説」をはじめとしたフィクションにも、「インターネット」というリアルテクノロジーが、当たり前のように登場するようになってきていて、それが「コンテンツ」の世界観を広げたり深めたり、表現を多様化しているのを、日に日に感じています。
(もちろん、インターネットをかなり脚色しているケース、あきらかにそれは(今の段階では)ないだろ、という使われ方もありますが)
あと、同じ文脈で言うと、「携帯電話」なんかは、インターネット以上に、ストーリーや脚本に大きく影響を与えたテクノロジーですね。

●小説は、情報社会の中で「時間」を実感できるもの
まとめとして。

あ、その前に。どうも僕が読む作品は、犯罪もの、やくざものといったところが多いため、ここで取り上げた例のほとんどが、インターネットの悪い使われ方ばかりだな、と書きながら思ったんですけど、インターネットによって楽しくなったり幸せになる作品はもっといっぱいありますよ!
(と、フォローしておきますw)

あらためて。

10年前、20年前では、ここまでインターネットが普及しているとは考えられておらず、そのため、当時の小説の世界観も、インターネットがないものが多かったように思います。
その中で、今の状況を示唆していて、それをその時代から指摘していたんじゃないかと、振り返ってみて驚きを感じたのが、宗田理さんが1999年に書いていた、このあとがきです。

新しい主人公たちは、二十一世紀の少年たちである。いまの少年たちは十年前にくらべたら、ハイテク機器を使って恐ろしいほどの情報を取り入れる。そうなれば、かつての少年という概念からはみ出してしまうはずだ。
知識は、大人のほうが子供より多く所有していた。だから、大人が優位に立つことができたが、いまは、そんな時代ではなくなった。
『ぼくらのラストサマー』(角川文庫、宗田理、1999年6月)あとがきより

ここで宗田さんは、それまでの人間社会では、時系列とともに進むことが前提で、知識量も経験値に比例して増えていくという世の中だったのが、21世紀以降は、経験値と知識量が比例せず、知識量だけが一方的に増え続けていくことを予測しているように感じました。
その最大要因と捉えているのが「インターネット」というわけです。

このあとがきを初めて読んだときは、正直、漠然と「そうなるのかもなー」と思っていたんですが、今、この歳になって、その通りになっていると年々感じるようになってます。

さらに、もう一歩踏み込んで、二十世紀では「前提条件」と考えられていたもの・概念が、二十一世紀では「前提条件」どころか、ゼロに帰するというような意味も含めているように、僕は捉えています。経験は大事だけど、経験だけでは成り立たない時代が来ている、と。

ただ今回のエントリでは、「だから情報社会では、こうあるべき」みたいな、大上段に構えたことを書きたかったわけじゃなくて、自分の中で漠然と感じていた時間の流れと社会の変化を、リアルとフィクションの観点からちょっと文章にまとめたくて書いてみました。

いずれにしても、進化する社会の中で生活をしていると、10年ぐらい前の小説を読み返してみるだけでも当時の様子を思い出すことができ、また、改めて「十年一昔を体感できる」んだな、と思います:-)

つまり、小説は、情報社会の中で「時間の流れ」を実感できるものだと言えるんじゃないでしょうか。

たまに、こういう視点で小説を読んでみると、なかなか楽しいですよ。

ps
ちなみに、今、世界を席巻するGoogleが設立されたのが1998年6月、メディアを賑やかしているFacebookは一般公開が2006年9月、mixi公開は2004年2月。そして、このアメブロがスタートしたのが2004年9月。そう考えると、10年どころか、5年前と今を比較しただけでもインターネットの世界、状況は激変しているわけです。ほんとオドロキ!

せっかくなので、来年の同じ日に、また、同じテーマでエントリを書いてみたいと思います。

ぼくらのラストサマー (角川文庫)/宗田 理