日記で日々の思い出を書こうと登録したのはいいものの、何を書くか全然思いつかず…
ふと小学校で作文いっぱい書いたなと思い出して、書いてみようと思います。
特に意味はありません。作文を書くのは結構好きでした。仲間いるかな?
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「たくさんの感謝」
いつからだろう?当たり前だと勘違いしたのは。
いつからだろう?感謝を忘れたのは。
これは先日の出来事だ。
たまたま話す機会があった外国籍の方が「日本人はあいさつと同じくらい感謝をする。自分の国ではほとんどありがとうなんて言わないよ」と。
確かに…買い物したりしたら必ず「ありがとうございます。」と伝えるし、とりあえず悪い気はしないだろうと軽い気持ちで返事のように使う時もある。そうか、これは当たり前のようで実はいいことをしていたのだなと少し誇らしげに思った。
しかしふと、あれ?これは感謝しなくていいだっけ?と感じたことがある。
それは、例えば
①道で車に道を譲ってもらった時、歩行者優先だしと感謝もそこそこに早く歩く気持ちもない。
②例えばエレベーターで出る時、入る人が待っているのに感謝を口にしない。
「だってこっちが優先だし」といつの間にか頭の中で感謝しなくてもいいという思考になってしまっていた。
優先=感謝しなくていいとはならないのに。優先かもしれないけど、相手が待っているという事実は変わらないのに。
待つのが当たり前なんてすごい勘違いをしていた。
感謝するのになんのデメリットもないのだから、たくさん感謝をすればいいのになんで出し惜しみをしていたのかと自分でも不思議に思った。相手の気持ちを考えるなんて小さい子でもできるのに、だんだんそれが当たり前だと勝手に変換して勘違いしてしまっていた。
さらには感謝をしたら負けみたいな謎の感情もどこかにあり、むしろ歩行者優先のところで小走りしている人をみて「なぜ走る必要があるのだろうと思っていた」。
でも"なぜ"の意味を改めて考えてみると、相手が早く渡れるような気遣いだったり、待つ事に関しての感謝という意味が走るという行動に含まれているのではないだろうか?また、行動に起こすことによってお互いに気持ち良く道を通ることができるのではないか?と考えられた。
それはいつも私が店員さんに感謝しているのと何か違うところがあるだろうか?
当たり前に思えるようなことだが、外国籍の方に「あいさつと同じくらい感謝する」と言われなければ気づけなかっただろう。
こんな簡単なことなのに気づけないなんて恥ずかしい。
傲慢になっていた自分が恥ずかしい。
気づくきっかけをくれた外国籍の方ありがとう。
これまで道を譲ってくれた方ありがとう。
小さなことでも感謝の言葉や行動をたくさんしていこうと決意した。