父は私が2才の時に相手の酒酔い運転居眠り運転も重なり父は原付バイクに乗っていて、なんか危ないなぁと思い避けましたがその避けた方にダンプカーに跳ねられ内臓破裂で死にました。その父は両親に捨てられた人間でした。44才で死にました。父がまだ生前の頃、父が金を持っているのを聞きつけ家に遊びに来ました。その頃長女次女私妹がいました。次女がどんないたずらをしたのかは知りませんがタバコの火をその父を捨てた両親に押し付けられその次女の叫び声に気付いた母はもう二度と来るな!と言いました。私もタバコの火を押し付けられる寸前でした。そしてその両親は私の父が新聞屋の社長だと知り金をせびりに来てたのでしょう。そして、私はまだ2才だった為詳しいことまでは分かりませんが父が死に遺産を持って行きました。母は父が死んでからは無気力状態になり、身体障害者の次女とダウン症の妹を施設に預けるより他の道は考えられず私と姉は母の元で生活をしていました。ある時から父が借金をしていたので毎日のように借金の取り立てが家に来ていました。が3度目の男がその借金取りを追い払いその男と一緒になりました。最初に結婚した男は長女がまだ赤ちゃんの時に蒸発し、近くの八百屋から砂糖水をもらい長女と次女に飲ませていました。たまたま新聞の勧誘に来ていた私の父がその状況を見るに見兼ねて母と結婚しました。そして上手く生活出来ると思った母でしたがたったの2年で理不尽な交通事故に遭いそして今度こそはと思って結婚した母でしたが上手く行きませんでした。その男は母を家の壁に立たせて車で突進して警察沙汰になり母はそれからというもの足を引きずり歩くようになりました。そしてその男にパチンコを教わり私も幼稚園児のときにパチンコをさせられていました。そして、結局その父とも別れました。そして、違う場所に移って母と姉と私で生活するようになりました。そして、母は毎日のように酒をのみパチンコパチスロをしていました。生活は荒んでいき、私は自分が壊れて行くのが自分でも分かりました。そんな中母は姉が働いて得た給料が入った通帳から勝手に金をおろしてパチンコパチスロをしていました。そして、私が中学生だった頃母は家に知らない男を連れ込みセックスをしていました。隣の部屋で寝ている姉と私でしたが、姉はすすり泣いていました。私は我慢出来ましたが姉をなかされるのが許せず母に刃物を向け殺してやろうと思いましたが母は逃げてしまい私も我に返りました。少し話しは戻りますが。私が小学生だった頃女の先生が給食費6ケ月溜まっているんだから払いなさい!と皆んなのいる前で言われました。その先生は千葉県旭市にある干潟小学校と言う学校の先生でした。そして、中学生になり体力も付いて来た頃私は不本意でしたが、母と姉に暴力を振っていました。完全に壊れていました。私のことを想ってくれる母と姉にこれ以上暴力は振るいたくないと思い警察でもどこでも連れて行け!と言ったら児相の人が来て児相に行くことになりました。それまでと言うもの毎日のように当たり前に母と姉と暮らしていた為児相で朝から晩まで泣いてしまいました。母と姉に会いたくて、台風の中30キロ近く歩いて家に帰ろうとしましたが、途中で児相の職員に見つかり一旦家に会いに行こうかと母と姉と久しぶりに会い3人で泣きじゃくっていました。あんなに暴力を振るったのにこれほどまでに泣いてくれるのは家族なんだなぁと思いました。そして、今度は児相を出て児童養護施設に入りました。そこでやく1年過ごし先生に紹介してもらった仕事に付きましたが、暴力を振るわれ金も騙されました。そして、てっきり先生が助けてくれると思い電話をしたら助けてくれませんでした。そして、家に帰りましたが母の気性が荒く家を出るしかありませんでした。そして、職場を転々とするようになり、今は精神障害者です。複数の病名を持っています。そして母から教わったパチンコパチスロの快感が忘れられず当時生活保護のお金を全部パチンコパチスロにつぎ込んで生活が立ち行かなくなりある施設に無理やり入れさせられ精神的に衰弱して行きました。食事もひどかったです。江原啓之さんは言います。本当に神様の力が働いたらわざとその人を転ばせるだろうと。今も生活保護で生活していますが、なんとか仕事を見つけて頑張りたいと、皆さんの中には自殺してしまう人もいるかと思いますがどうか死なないでください。生き抜くことが大切だと知ってください。艱難汝玉にす。と言う言葉通り艱難辛苦を味わって初めて人の気持ちや心が分かるのですから、死なないでください。